ラベンダーの湯【2分小説】
宵の口。冬の訪れを告げる木枯らしが、下ろした髪の毛をもてあそぶように吹き抜けていく。
三年ぶりに帰ってきた実家のアパートは、どこかわびしげに佇んでいるように感じた。それは帰る道すがら、所々で建て替えられた家が目についたせいなのか、もしくは嫁ぎ先の立派な家屋に慣れてしまったせいなのか。古い木造建築で玄関口をぼんやりと照らす蛍光灯の灯りの頼りなさを見るに、時代に取り残されているなと思わせた。
「あら、本当に帰ってきやがったよ」
家に入ると、母がぞんざいな口ぶりでわたしを出迎えた。
「ちょっとの間だけだから、すぐ出ていくよ」
「イヤだねぇ、出戻りだなんて。あぁ、イヤだイヤだ」
自分だって離婚しているくせにとわたしは思った。
母はこうした憎まれ口をよく叩く。伯母の存在がなかったらわたしはこの母親を憎んでいたかもしれない。
父と離婚したのはわたしが四、五歳の時で、それからこのアパートで母と二人で暮らすことになった。伯母と顔を合わせることが多くなったのは、この新たな生活が始まってからだった。母の悪態は生来のもので、伯母は「イヤなことを言うけど、あれは照れ隠しだから」と何度もわたしに弁護した。しかし、そんなことを言われても子供のわたしにはよく分からなかったし、嫌で堪らなかった。
大人へと成長するにつれて衝突もするようになったが、なんとなく伯母の言う意味が分かるようになり、貧乏なりに不自由なく過ごせていることに感謝の気持ちも芽生えるようにもなった。短大まで卒業して就職し、運よく老舗和菓子屋へと嫁ぐことになった時には「もう、ここには帰ってくるなよ」と母は言った。それはきっと充分に満足させてやれなかった生活に戻ってくるなという意味だったと思う。
だが、わたしは戻ってきてしまった。離婚の原因は子供ができなかったことだった。
代々繋がれてきた家業を絶やさないために、跡取りとなる子供を産むことは必須だった。不妊治療を試みるも成果は虚しく、家族から徐々に蔑ろにされるようになってわたしの居場所はなくなった。深い傷を負った心を抱えて帰ってくる場所はここしかなかった。
冷えた体を温めるためにお風呂に入る。バランス釜式の正方形の湯船にはラベンダーの入浴剤が溶かしてある。わたしが落ちこんだ時に必ず入れていたものだ。誰かにお風呂を準備してもらうのはこの家を出て以来だなと思った。爽やかな香りに身を沈めてわたしは呟く。
「ただいま」
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