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遺言【5分小説】

 親父が死んだ。
 自宅に届いた一通の書状を開いて、ぼくはその事実を知った。
 驚きはない。涙も出ない。まるで興味のない有名人の訃報を知らせるニュースを見ているような、そんな気分だった。
 手紙の差出人は福祉事務所となっている。生活保護を受けていた親父が亡くなったという報せと、死亡届を提出できる親族がいるかを確認する内容だった。
 ——生活保護を受けていたのか。
 事務的で淡々とした文面からその事実だけを、無感情に認識した。これまで親父がどこにいたのか知らないし、どんな暮らしをしているのかもさらさら興味がなかった。親父とは単に血が繋がっただけの〝赤の他人〟、そんな関係だった。
 二歳の時に両親は離婚し、ぼくは母に引き取られた。まだ物心もつかない幼少期に親父と別れ、どんな姿をしていたのか記憶に留めておくことはできなかった。成長するにつれ父親の存在を認識したとき、ぼくの親父はどんな人だったのか母に訊いたことがある。
『両親に捨てられた孤児院育ちで借金を押しつけて姿を消したろくでもないヤツ』
 それだけ言って、後は思い出すだけで不愉快だと言わんばかりに口を閉ざした。そう言い放つ母にしても、度々ぼくを家に置いたまま帰ってこなかったり、水商売でねんごろになった男を連れこんだりしていたのだから、大して変わりはないだろう。ただ、身よりもなく、借金を背負わされ、そのうえ女手ひとつで子供も育てていかなければならない。そんな境遇にあって、朝から夜更けすぎまで働き通しだったことを考えると致し方ないのかもしれないが、親父よりはるかに身近な存在だったせいか、母に対しての方が恨みは大きかったような気もする。
 親父とは中学二年の時に、たった一度だけ対面したことがある。それまでいっさい顔を合わせることが無かったのは、母が会わせないようにしていたのか、親父が倅に興味を示さなかっただけなのか。ぼく自身も会うことを望むようなことを言った記憶がないように思う。それがある日突然、「ゲームボーイを買ってやるから会いに来い」と母づてに聞かされ、会いに行くかどうかの判断は委ねられた。貧乏でテレビもなく、暇つぶしといえばマンガを読むくらいしかなかったぼくは、当時の最新ゲーム機に釣られてのこのこと会いに行ったのだった。
 待ち合わせ場所の駅で待っていると、行き交う人々の中で一人だけ異様に浮いた男が現れた。体格は痩せぎすだが、派手な柄シャツに黒いサテンパンツ、薄いサングラスをかけ金のアクセサリーをあちこちにつけた出で立ちであった。ぼくは関わりを持つまいと見ないようにしたのだが、やがて再び視界に入ってくるとその男は声をかけてきた。
「おう、和成かずなりだな、おまえ」
 親父はゲームボーイを買う前に飯を食いに行くぞと言って、ぼくは鰻屋へ連れていかれた。
 親父の存在はひどく居心地が悪かった。人を寄せつけず、蔑まれた視線ばかりを投げかけられるような風体で、一緒にいるだけで自分も同じ種類の人間に思われるような気がした。そうして口数少なく遠慮しているのを見た親父は、特上のうな重を二つ注文した。会話は特にない。いや、あっちからいくつか質問を投げかけてきたのだろうが、一言だけ返事をするのに終始していたと思う。
 やがてうな重が運ばれてくると、親父は自分の鰻と飯を半分以上ぼくの方に移してよこした。いらないと反抗しても、育ち盛りなんだから食えと言ってきかなかった。うんざりして黙々と食べているぼくを、先に食べ終えた親父はなにも言わずにじっと眺めていた。
 鰻屋を出る時に親父は、ゲームボーイを買う金がなくなったと悪びれる様子もなく言った。ぼくは自分でも驚くぐらい愛想なく「あっそ」とだけ返した。ゲームボーイを手に入れることより、親父と街を歩きたくなかった気持ちが勝ったからなのだろう。
 親父はぼくの態度を予期していたかのように受け止め、一言だけ言った。
「おまえは、ちゃんと生きろよ」
 それだけ言い置くとくるりと振り返り、駅と反対の方へ歩き出した。軽く見返り「気をつけて帰れや」と言いながら片腕を上げ、ぼくの元から離れていった。ぼくにとって、特上のうな重を食わせてくれた喜びより、関わりを持ちたくない忌避の方が強烈に心に焼きついた出来事だった。
 それきり親父とは一度も会っていない。いや、正確に言うと会わなかった、、、、、、
 ぼくが成人してから、働いている職場へ何度か電話をかけてきたことがあった。いったいどんなツテを辿ったのか分からないが、ぼくは直接出ずに同僚に後で折り返すと伝言させて、それきりにしていた。同僚によると何か「詫びたいことがある」と言っていたようだ。どういうわけか、同じタイミングで離れて暮らす母からも似たようなことを言われていた。親としての役目を果たさなかったことを後悔している、と。
 この頃のぼくは親の詫びなど聞きたくもなかったし、過去にしでかした無分別を反省されても、それを受け入れるだけの心の余裕もなかった。充分な生活を与えられなかった学生時代からは想像もできないほど充実した人生に、不幸の元凶を持ちこみたくなかったのだ。
 働ける年齢になって自分の生活は自分で補わなくてはならないと思ったぼくは、まかないで食費を浮かすというただそれだけの理由で飲食店を選んだ。幸運だったのは、そこで働く仲間に恵まれたことだった。今の職場はその仲間との縁がもたらしてくれた場所なのだ。そんな自分自身で掴み取った幸せを、幸せのかけらも与えてくれなかった両親がむしばんでいくような気がして、関わりを持ちたくなかった。親がぼくを見捨てたように、ぼくが親を見捨てたって文句は言えないだろう。そう自分に言い聞かせながらもぼくは親を黙殺することに、なぜか罪悪感を感じてもいた。
 
 親父の住んでいた部屋の遺品整理を終え業者を見送ると、思わず大きく一息ついた。大した作業ではなかったが、妙に胸が重くなっていた。
 親父の部屋は長いこと住んでいた割に非常に簡素な生活だったことが窺えた。生活保護受給者であるのだから、生きるのに必要最低限の物だけといった感じで、部屋から全ての荷物を運び出すのに二時間とかからなかった。親父の遺品にしても、血縁だけあって〝赤の他人〟である人間の物など引き取ろうとも思わなかった。
 葬儀も含めた死後の後処理はそれほど大きな手間にならずに済んだが、それでも面倒には違いなかった。手続きを進めていく中で、福祉事務所の職員から親父の生前の話を耳にすることがあった。
 親父は病気で弱りかけていた頃に、何度もぼくの名前を口にしたそうだ。不遇な思いをさせてしまった息子がいる。親として果たすべきことを何ひとつとしてやってこなかった。そのことを詫びようにも、その機会を与えてもらえない。自分は愚かな人間として生まれ、愚かな人間として死んでいく。こんな愚かな人間の子供にしてしまったことを詫びたい。そう言っていたそうだ。
 親父は確かに愚かな人間だったのだろう。しかし、愚かな人間として生まれたとは思わない。おそらく——人との巡り合わせに恵まれなかっただけなのだ。そう思うのは、愚かな父と愚かな母を持ったぼくが、幸いにも多くの仲間に恵まれて生きていると実感があるからだった。仲間に恵まれたからこそ、孤独に死んでいった親父のことを思うと、なぜそんな惨めな人生になってしまったのだろうと憐みのような感情がこみ上げてくるのである。なんて不公平な世の中なんだ、そう思った。
 親父の部屋に残されたものでたった一つ、ぼくに宛てた短い手紙だけ取ってある。
 
『和成、ちゃんと生きていることを願う。おれはちゃんと生きる強さがなかったために運命に翻弄されてしまった。おれたち夫婦は別れてしまったが、たったひとつだけちゃんと言えることがある。おまえはおれたちがちゃんと愛し合って生まれてきた子供だよ』
 
 親父が会社に電話をかけてきて、向き合ってやらなかったことが心にしこりとして残っている。そのしこりは時が経つほどに風化していくどころか、より存在感を露わにしてくるように感じる。後悔はなかったはずだが、やはり罪悪感だけはどこかで残っていたのだろう。
 ぼくもだいぶ大人になってきた。少しずつではあるが、両親に対しての感じ方も変わってきている。親父とは最後まで向き合うことはなかったが、そのぶん母とは向き合っていいのかもしれない。
 遺された言葉からそんな想いが芽生えた。

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