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04ーマルヨンー 《さまよう新人》【7分私小説】

「制服に着替えたら館内を案内するから」と言って、澤田さんは部屋を出た。
 弘道は部屋にいたふたりと簡単な挨拶を交わした。
 ひとりは古峯ふるみねさんと言って、どこか熊っぽい雰囲気だなと弘道は思った。とは言っても大柄で毛むくじゃらな野性味あふれるものではなく、小柄でテディベアのようなフォルムをした熊である。齢は二十六でこの部屋の最年長らしい。同じサービスでこれから一緒に仕事をすることが多くなりそうである。
 もうひとりは波戸はとさんと言った。営繕えいぜんという敷地内の清掃をしているようで、作業着を着ていた。二十四歳で優しそうな笑顔を湛えているが、口元から覗かせる歯は二本ほど欠けている。
「ベッドってどれ使えばいいんですかね?」
 弘道はふたりにそう訊ねた。部屋には二段ベッドが四つあり、下の四つはすべて埋まっているようだった。上にもひとり入っているらしく、弘道は部屋の入口にいちばん近い上のベッドを選んだ。ひとまずボストンバッグを置いて、持ってきた白ワイシャツと黒のスラックスを引っ張り出す。
 上下を速やかに着替えてカマーベルトを着けようとしたが、後ろ手でフックを掛け合わせられず、何度も空を切った。そうしてまごついていると、古峯さんが「つけてやるよ」と言いながら背後に回ってあっさりと繋いでくれた。「ありがとうございます」そう礼を言い、弘道は蝶ネクタイを締めにかかった。
 蝶ネクタイも簡易型のフックで着けるタイプのもので、手元が顎の下にあって視界に入らずまたしてもまごついた。古峯さんは「しょうがねぇな」と呆れて、咥えタバコで煙をくゆらせながら再びフックを掛け合わせてくれた。その着付けする姿は、先輩としての貫禄に溢れているように見えた。
 最後にえんじ色のベストを羽織って四つのボタンを留める。
「これでいいんですかね」
「うん、いいじゃん」
 吸った煙を吐き出してから、大峯さんはそう誉めてくれた。ベッドに腰かけていた波戸さんも、笑みを湛えながら見つめていた。
 着替えを終えて部屋を出ると、斜向かいに見える喫煙所に澤田さんは座って待っていた。古びた駅舎の待合室のような、一枚板のベンチがコの字型に設えてある。その真ん中にスタンド灰皿が三つ置かれていた。
「タバコはここで吸うことになってるから」
 澤田さんはそれだけ言うと、立ち上がって玄関へと向かった。一応伝えるべきことは伝えるけどあとは知りませんと、暗にそう示しているような物言いだった。
 サービスの仕事で関わる飲食店の場所と従業員用の出入口だけ案内すると言って、澤田さんは玄関を出た。目の前に広がる駐車場の南側に、従業員寮は位置している。そこから北西に針路を取ると、温泉浴場などが並ぶ建物へと行ける。まず寮からいちばん近い場所にビアガーデンがあった。いかにもアウトドア風にこの区画だけ人工芝が敷かれ、丸型のアルミテーブルとキャンプチェアが並んでいる。ここは団体客が宴会を催すときだけ不定期に開くようだ。あまり頻度は多くないのだそうだが、奇しくも今日は宴会が行われる日だという。
 その隣には「アゼリア」というフードコート。先ほどバスを降りた場所である。正面玄関の真裏に厨房を出入りする勝手口があり、そのままビアガーデンへと繋がっている。ビアガーデンを営業するときはここを行き来するようだ。
 次にそこから離れた本館へ向かった。一階に宴会場「アカハラ」、二階に中国料理店「獅子」、三階にもう一つの宴会場「シラカバ」、そして最上階の四階に展望ビュッフェラウンジ「あさま」と案内された。
「サービスの仕事場は都合六ケ所。朝、昼、晩とシフトが出るから、それに従って動いてね」
「……はい」
 目まぐるしく案内をされ、早くも弘道は不安になった。行く道々で従業員通路から入ったり正面玄関から入ったりで、どこを通ってきたのかもはや分からなくなってしまっている。レストランの名前もどこが何だったのか繋がっていない。
 そんな心配をよそに澤田さんはきびきびと歩を進め、総務部に戻った。
「ここにタイムカードがあるから、出勤と退勤のときはカードを切って。シフトが朝と夕方のときはこんなふうに二回切って」
 澤田さんはホルダーから従業員のカードを一枚取って見せた。横並びに出勤と退勤がそれぞれ二回ずつ、計四回の時刻が刻印されていた。
「じゃあ、君は十七時から『あさま』になってるからそれまでは休憩で。寮に食堂があるから食べといた方がいいわよ。終わるまで食べる時間ないから。あ、タイムカードはもう切っちゃって。仕事が終わったらまたここに来て、ちゃんとカード切ってね。切らないとタダ働きになっちゃうから」
「わかりました。えっと、『あさま』ってどこでしたっけ?」
「四階の展望レストラン。いちばん最後に行ったんだから忘れないでよ。ガラス張りのところね」
「あぁ、四階ッスね。オッケーです」
 弘道は自分の名前が書かれたタイムカードを打刻機に差しこむと15:54と印字された。タイムカードをホルダーに戻して総務部を後にした。
 従業員通路の階段を降りて突き当たりのドアを開けると外に出た。振り返って「ここが従業員通路ね」と、弘道は律義に指さし確認をした。
 部屋に戻ると古峯さんと波戸さんの姿はなかった。夕食でも食べているのだろうか。集合までちょうど一時間ぐらい。澤田さんに言われた通り先にご飯を食べておいた方がいいのだろう。
 部屋を出て左右の廊下を見渡すが、まるで人がいない。食堂とはいったいどこにあるのか。耳を澄ましても食事の音や従業員同士の会話なども聞こえず、不気味に静まり返っている。
 ひとまず左の奥の方へと進んでみる。従業員が寝泊まりすると思われる部屋のドアには番号を割り振ったプレートが掛かっていて、弘道の寝床は104としるされていた。そこから103、102と数字が若くなっていく。それぞれの部屋の廊下を隔てた向かいには、さっき澤田さんが座っていた喫煙所、その隣にはトイレ。そして101で部屋が終わると、向かいは洗面所と浴場があった。どうやらこっち側はこれだけのようである。
 また104号室に戻り、逆の方へと歩いていくと105の向かいには自動販売機。106で突き当たり、その向かいに何も書かれていないドアがあった。向こうの様子が分からず入っていいものか、弘道は躊躇ためらった。
 ノックをして小声で「失礼します」と言いながら、恐る恐るドアを開ける。すると、そこには食堂の風景が広がった。六人掛けのテーブルが六つほど並んでいて、従業員たちが散り散りになって食事を摂っている。弘道と同じえんじ色のベストを着ているサービスの人間のほか、コックコートを着た者、ベッドメイキングらしき格好の女性が目に入った。そこに制服に着替えた古峯さんもいた。
「どうも」
 弘道は古峯さんに声をかけた。古峯さんは口の中を咀嚼そしゃくしたまま右手を上げて返事をした。
「メシってどうやってもらえるんですか」
 口にあったものを呑みこんで、古峯さんは言った。
「入口に券売機があるから、そこで買って受け渡しカウンターで渡せば出てくるよ」
「あ、買うんですか?」
 食事をしている人たちを見ると、みんな食膳の横に財布を置いている。勝手に無償で食べられるものだと思いこんでいた弘道は、釈然としない気持ちで財布を取りに部屋に戻った。
 入口にある券売機の前に立つ。【朝食三〇〇円】【昼食三五〇円】【夕食四〇〇円】と、ボタンはこの三つだけだった。メニューを選ぶ余地などない。つまり学校給食と同じシステムというわけだ。それに従業員向けにいくらか安くしているのは分かるが、それでもそれなりに取るんだなと、弘道は思った。
【夕食四〇〇円】のボタンを押して出てきた券をカウンターで渡し、膳を携えて古峯さんのいるテーブルに弘道は座った。古峯さんともうひとり、サービスの制服を着た男が一緒に食事をしていた。
 渡嘉敷とかしきと名乗った男は同じ部屋の住人らしかった。名前から察せられる通り沖縄出身で、少し落ち窪んだ目元に濃い眉が印象的な顔立ちである。齢は弘道と同じ二十歳だった。
「柴村は夜のシフトはどこになったの?」
「『あさま』って言われた」
「じゃあ、オレと同じだ」
 仕事を始める前にここで顔見知りになれたことは、弘道の心に安心感をもたらした。同じ部屋で、同い年だった分だけ余計にそう感じた。
「メシって、これ食ったらもうないんですか?」
 十六時台に一日の最後の食事をする経験などした試しがなく、古峯さんに訊ねずにはいられなかった。
 それに膳のボリュームにもいささかの不安があった。デミグラスソースのハンバーグに人参といんげんの付け合わせ、ほうれん草ともやしのごま和え、イカとキャベツと水菜のマヨネーズサラダ、そしてご飯と味噌汁が乗っていた。四〇〇円にしては悪くないが、食べ盛りの男には物足りないのである。 
「食堂のメシはこれが最後。あとは適当にカップラーメン食ったり、レストランの場所によってはたまに残り物がまかないになったりするけど」
「そうなんですか。これで足りるかなぁ」
「ご飯と味噌汁はおかわりできるよ」
「ホントですか? じゃ、おかわりすっか」
 弘道はおかず一口に対して米を三回、四回と口に運んで味噌汁を啜った。おかわり自由とあらば食べられるだけ食べてやろうと貧乏根性に火が付いた。ご飯は五杯、味噌汁は三杯おかわりをした。そうして食べている間に古峯さんと渡嘉敷は先に食べ終えて部屋へと戻って行った。
 遅れて食べ終えた弘道が部屋に戻ると、ふたりはベッドで横になりながらタバコの煙をくゆらせ、携帯電話をいじっていた。集合時間まであと十分ぐらいである。こんなギリギリまでご飯を食べていた自分のことを棚に上げて、こんなにのんびりしてていいのだろうかと、弘道は思った。
「もう十分前だけどいいの?」
 渡嘉敷はむくりと起き上がると、タバコの火を灰皿に押し付けて「じゃ、行きますか」と膝を叩いて立ち上がった。
ふたりは並んで本館へと向かう。正面に見据えた建物は、やや傾いた西日を受けていた。
「渡嘉敷はどれくらいここでやってるの?」
「オレは年越し前の冬から」
「へぇ、長いね」
「サービスではオレがいちばん長い」
「おぉ、マジか。頼もしい」
「わからないことあったら、聞いてくれればいいから」
 社会で出会う同い年の人間には、学校にはない特別な親近感のようなものがある。古峯さんも波戸さんもいい人そうだが、ものの数分でタメ口で会話ができるのは、やはり同い年の特権のようにも思えた。もしくは、これから寝食をともにするこの環境がそうさせるのだろうか。
 エレベーターで四階に上がり、「あさま」の入口の大扉を開けると、すでに三人の男女が待機していた。また、ここでも簡単な挨拶を交わす。
 程なくするとフロアリーダーと思われる社員さんが現れ、「夕礼はじめまーす」と言ってバイト従業員たちの輪に加わった。
 全面ガラス張りの窓からは、まだ落ち切らない夏の光が燦々さんさんと注ぎこんでいた。

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