吉祥鳥

中国語圏の文学・映画の研究、小説や詩の翻訳をしています。

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最近の記事

エドワード・ヤン『恋愛時代』(リストア版)ーー虚構の愛をめぐる物語

 先日、お気に入りの映画館、那覇の桜坂劇場で楊徳昌(エドワード・ヤン)監督のリストア版『獨立時代』(1994、恋愛時代)を観た。今日はこの映画の感想を資料によらずに自由に書いていこうと思う。少し恣意的になるかもしれない。事あるごとに観返してきた作品ではあったが、改めて劇場で観て少し違う印象を抱いた。   この映画が「時代を先取りしていた」とは思わない。むしろ「同時代の台湾で生きる現代人の困難さを鋭く風刺していた」と言ったほうがいい。儒家思想では埋まらない、もう一つのヤンの教

    • エドワード・ヤンの回顧展「一一重構:楊徳昌」が台美館で開催中

       台湾ニューシネマを代表する映画監督、エドワード・ヤン(楊徳昌、1947-2007)の回顧展「一一重構:楊徳昌」(A ONE & TWO:EDWARD YANG RETROSPECTIVE)が、台北市立美術館(臺北市中山區中山北路三段)1A&1B展示室で開催されている。ここでは本展の一部をレポートしてみたい。 0. はじめに  2019年、エドワード・ヤンの妻・彭鎧立氏が創作ノートや企画書、脚本、日記、随筆、手紙、手稿、写真、蔵書、美術道具、そして貴重な映像フィルムなど1

      • 記憶の風景

        台湾東海岸にある太平洋を望む美しい港町、花蓮。 町の背後には太魯閣渓谷の絶景が広がる。 かつてその海岸線に建っていた、白い灯台。 その朧げな姿が、集団的な記憶の風景として、 詩人のスタンザから立ち上がってくる 机の表面に刻まれた歴史ある傷たち、黒髪のシャンプーの香り、風に揺れるカーテン、闖入者の燕とカラスアゲハ。 教室の窓から海が見える。 未熟なわたしの身体を包み込むような空へつらなっていく絹 白い波が幾重に言葉を連ねて、白い灯台へと打ち寄せている ザワメクキミノココロヨ

        • 風は/をどう感じる

          すごく抽象的でナイーブな質問で恐縮ですけど、 みなさんは、〈風〉をどんなふうに感じますか?  たとえば・・・・・・ 海や陸や峡谷を長い時間旅してきた〈それ〉に再会し、 昔の恋人に会ったときのように、気まずい短い挨拶を交わすとか 自分の身体が烏賊のように透明になって、空っぽの胸のなかを〈風〉が駆け抜けてゆくような感覚だとか (深い海底にわたしは身を沈めているのだ) こころや身体が風に洗われて、晴れた日に乾された白シャツにでもなったような気持ち 愛していた人に初めて出会い、

          永遠の別れは、夏の雨のように

          庭の片隅に小さなライラックを植えた 初めての夏は花をつけず 二年目の初夏に淡い紫の花を沢山つけた さっそく青いハチドリの群れが飛んできて 花の蜜を吸う それから ぽろぽろと雨のように、花が地面に落ちてゆき ちいさな庭はいつしか広く深い海に変わった 底知れない海の寛容さに怯える 凪いだ海面をクジラが飛び、カモメたちが恋をささやき合う 永遠の別れとは、夏の夕暮れの驟雨のように突然訪れるもの このにわか仕掛けの海はさざ波をたて 僕たちにいま旅立ちをうながしている

          永遠の別れは、夏の雨のように

          大海を知ることなき魚たちの小さな群れ(夢日記)

          夏祭りの雑踏を、物売りの喧騒にまみれて、 紅い旗袍を着た少女が、人の群れを縫うように歩いていく りんご飴の甘い香り、葱餅の焼ける油の匂い、裸電球の光が大海を知ることなき魚たちの群れを照らしている ぼくは母を探していた。いまだ逢ったことのない母の姿を。 長いつり橋を渡り坂を下ると、青く澄んだ河辺があり、そのほとりに上宮が鎮座していた。宮の広間には、お刺身や羊肉やライチやらの御馳走が並べられ、獅子や巫女たちが座して楽しそうに歓談している。 河辺には、あの紅い旗袍の少女が独り座っ

          大海を知ることなき魚たちの小さな群れ(夢日記)

          小説の海のなかに棲息する紙魚のように

          導かれるままに、はじめてのnote投稿。 文系の教員なので、部屋のなかに書籍が散乱して、収拾がつかない。 英国文学を専門の方が廊下のゴミステーションに、マンスフィールドとか、ウルフとか、ディケンズの小説をお捨てになるので、嬉々として拾い集めていると、華語圏や日本語の小説だけじゃなく、英国のテクストも増えてきて、小説の海のなかに棲息する紙魚のように、泳ぐ。

          小説の海のなかに棲息する紙魚のように