揺らぎの正体(エッセイとプライバシー権)
エッセイとは何だろうか?
辞書にはこうある。
自分で体験した事や小説を読んで得た感想、意見を書いたモノ。
よく雑誌で見る👀のは、
アイツはこうだ。政治的人間として堕落した。
〇〇は日常的に犯行を示唆していた。あの日も同じ夕暮れ時にロッカーでいってたそうだ。
犬の散歩は井戸端会議🚶♀️暇って口実にならないでしょ。こんなモノが羅列される。
詳しく思えば、上から
それは事実に対する意見
それは事実を深掘りしたもの
それは事実の内情を述べる
と解釈出来る。
簡易に言えば、
事実に対して、フィルターをかけ、私はこう思うである。
ならば、雑誌などの一方向メディアでなく、双方向性のメディアはどうだろう?
例を挙げよう。
アイツは殺した。
→近年、社会学的に犯罪の動機としては何何にやるところが大きい←私も思う
→周りから聞いていた。私もすると思ってた。
←いい子だと聞いてたけどね。
→アダルトチルドレンだろ。そこらじゅうにいるよ、何とかしてほしいな。←世の中そんなもんよ
とあるとする。
ここで、事実に対して繰り返し感想を述べるのは、エッセイなのか?と疑問が浮かぶ。
意図するものは参照元を大きく見れば間違いではないだろう。只、一般的には単なる感想の域を出ない。
凄く違和感を感じる。
深く掘り下げよう。
エッセイの代表的な性質として、
事実を理解、グウゾウ化、物語読ませる事だ。
これは読み物として格好をつける事に他ならない。
つまり広義として意見、感想であり、
狭義として読み物とすることを付け加えた場合、エッセイと言うのではないか?といえる。
核心に物語性がある事である。
さて。表題のもう一方である。
プライバシー権とは、私事をみだりに乱されない第三者の権利とある。
これを法廷では、
専門的な用語 民法、
法律の次元 権利、
解釈の問題 事実
の問題で争われる。
この種類の場で、弁護人の一般的な感想が入ることはまぁない。大方事例を含めた専門的な意見を述べるものである。
しかし法廷は、一般的な意見を時に用い無いと弁護人自身の言葉に能わないのは、性質として大義を捉え直す場所だからである。故にそれを審判する裁判官がいる。
もうお分かりだろう。
双方向とは不思議なもので、その一般性を勝手に書き換えてしまうのだ。そこに物語性があろうと無かろうと、裁判官がいようといなくとも。
常識は世間や時代により変化するのと同じように。。
最後に一句
イタチごっこの世間と
時間パフォーマンスの時代
政治は責任
民衆は自由
しかし共に揺らぎ
瞋恚滅する事なき世の中だ。
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