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コミュニケーション能力という幻想


コミュニケーション能力(という概念)をぶっ壊す

このnoteでは「コミュニケーション能力」という概念を根本から否定したい。
ここではコミュニケーションの正解を提示したり,能力向上のコツを伝授するような,押しつけがましいことはしない。
「コミュニケーション能力」の呪縛に捉われてしまい,世間で言われるコミュニケーションの正解とのずれに悩み,生きづらさを感じている人たちの心に寄り添うことができれば幸いだ。

世の中はコミュニケーション能力を上げたい人で溢れているようだ。
本屋に行けば「話し方は○○が9割」なんて本が新刊コーナーに山積みにされているし,Youtubeを開けば,「話し方のコツ!」とか「会話が無限につづく雑談術!」などの動画で溢れている(実にくだらない)。それだけ需要があるということなのだろう。
しかし,そもそもコミュニケーション能力なんてものがあるのか,甚だ疑問だ。
まずは素朴に考えてみよう。コミュニケーション能力が高い人はどんな人?と聞かれて,どのような人を想像するか?
もし,「すぐに誰とでも仲良くなれる人」,「ノリがいい人」,「いつも笑顔な人」,「共感力が高い人」なんてことを想像したならば,あなたはすっかり世間の押しつけに染まっている。
では,これらが「能力」を表していないことを示そうと思う。

能力の定義


そもそも能力とはなにか?能力とは優劣を表すものだ。
例えば「足の速さ」であれば,一定の距離を走り切るまでにかかる時間の短さによって能力を測ることができる。
この例からもわかるように能力は優劣を表すものであると同時に,客観性がなければならない。
そして先ほど挙げたコミュニケーション能力の例は,客観性が全くといっていいほどない。
「ノリがいい人」を例にとってみる。ノリがいいほど「良いもの」であり。ノリが悪いほど「悪いもの」であること前提にしている。素朴に問い直してみよう。なぜそう感じるのか?
これは感覚的なものであって,言語化できるような理由などないという人もいるかもしれない。確かにその通りかもしれないが,ではなぜあなたの心にはそのような感覚が醸成されたのだろうか?この疑問に直接答えることは私にはできないが,とりあえず以下の2つの例を見てほしい。きっと,なにか胸にひっかかるものがあるはずだ。

コミュニケーションの多様性を示す2つの例

英語圏vs日本語圏(文化的差異)

日本人が話をするときには,相手が話し終わるのを待ってから自分が話し始める。相手が話している途中で遮ったりすることは基本しない。これは当然のマナーだ。
しかし,英語圏では事情が違う。海外経験のある人はわかると思うが,相手が話し終わるのを待っていると,一向に自分の話すターンが回ってこないのである。話たいことがあるときは,自分からぐいぐいいかないと「こいつは話す気がない」と思われてしまう。
少し脱線するが,日本人が英語を習得する際には単語や文法が正しいことに注意がいきがちだが,実際のコミュニケーションの場では文化的な差異の方がむしろ重要なのだ。

定型発達vs非定型発達(遺伝的差異)

個人的に問題意識を感じている(そして社会全体がもっと問題意識を感じてほしい!)のが,定型発達と非定型発達のコミュニケーション様式の差異だ。
詳しくない人のために簡単に説明すると,非定型発達(発達障害)と呼ばれる精神的な「疾患」があり,大きく分けて,ADHD(注意欠陥多動性障害),ASD(自閉症スペクトラム),LD(学習障害)の3つがある。この中で,ASDの人たちはいわゆる多数派の人(定型発達)と違ったコミュニケーションをとることが知られている。
以下,わかりやすさのために断定的な表現を使うが,私の個人的な見解であることを断っておく。
ASDの人たちは雑談を好まない傾向がある。定型発達の人々は特に用事がなくとも雑談をし,雑談によって仲間意識をもったりお互いの関係性を(無意識のうちに)確認し合っている。
これと対照的に,ASDの人たちにとってはコミュニケーションとは情報伝達のための手段でしかなく,連絡事項もないのに会話をするのは非常に不自然に感じる。
ASDの人は人口の1~3%程度であると言われる。つまり,圧倒的マイノリティだ。周りの人たちは定型発達の人ばかりであり,「コミュニケーションとは情報伝達の手段である」という観点からすると,意味のわからない雑談が飛び交うことになる。
雑談に参加しなければ浮いてしまうことに気づいたASDの人たちは周りに合わせるべく無理をして雑談に参加することになる。
無理をして周囲に合わせることができたASDの人たちはかなり幸運だ。ここでは挙げていないがASDには雑談を好まない以外にも幾つもの特性があり,そもそも定型発達に合わせることができない場合の方が圧倒的に多い。

マジョリティの押しつけにほかならない

2つの例でみたように,文化的・遺伝的な差異によってコミュニケーションの様式にはさまざまな「フォーマット」が存在する。
そしてこれらのフォーマットには優劣がない,と私は思う。
相手の話を遮る英語圏の人たちと遮らない日本人,どちらが優れているのだろうか?
雑談を好む定型発達と好まないASD,どちらが優れているのだろうか?
私にはこれらに優劣をつけることはナンセンスとしか思えない。


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