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骑行开封:個性化追求による画一化?
開封の湯包を目指し、自転車で開封めがけて集団爆走する現象がバズったことから、“夜騎”と称して開封以外の天津等を目指す動きが各地に拡がっている。
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この根底にあるのが、中国の若い世代のライフスタイルと中国共産党の政治システムの権威主義的論理との間の相容れぬ矛盾だと指摘するのが呉国光だ。
呉の所論を追ってみよう。呉国光は、
―中国のティーンエージャーが今や身に着けるファッションから人気音楽、映画、ビデオゲームに至るまで西洋のその仲間と同じだとして、社会変化による個性の表現は中国の若者層に集中しており、個人生活、社会生活においてもますます個性的かつ普遍的になってきている。
―だが、公的生活や政治生活においては依然として中国国外の同胞とは大きく異なっている。というのも、党は無条件で個性を犠牲にし、衣・食・住・交通・言論・行動すべてを党の精神に従うことを要求している。
―この“骑行开封”現象に、“活得像个人(=個人として生きる)”から“活得是公民(=公民として生きる)”へという問題が提起されており、制度と人間の本性との間の対立と葛藤こそ、中国におけるあらゆる問題の根本的な核心だ
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慥かに、北京、上海等の大都市の若者を見る限り、そのファッション・スタイルは東京、ソウルあるいはNYとさして変わらないように見える。服装その他で中国人を容易に判別できたかつての時代は遠く過ぎ去っている。NY郊外でみかけるような廃車寸前のポンコツ車は殆ど走っておらず、洗車の行き届いた新車と思しきピカピカのクルマが道路を埋め尽くしている。林立するタワマン級の内部も、ウサギ小屋暮らしの日本人が羨むばかりのゆったりスペースに最新家電、インテリア調度品が揃っている。一見する限り、豊かとなった(一部)中国人のライフスタイルおよび若者の理想とするところは最早世界水準に達しているようにも思える。
だが、このグローバルなシンクロ現象とも目されるライフスタイルの同期は呉国光の説くような中国人の個性の表現なのだろうか。あくまで表層的、一面的な観察ではあるまいか。寧ろ、それは、各個人にとって字義通りの個性の追求ではなく、特定集団への帰属願望の追求でしかない。“自分らしさ”とやらを追求する結果が、同じような化粧法、ヘアスタイルであり、同テイストのファッションであり、“イケてる”若者像への同化、一体化することによって得られる安心感の獲得に過ぎない。個人の個性表現どころか、まさしく、「集団的」個性への帰依でしかない。個性化追求による画一化の進行という逆説的事態である。一定の個性を標榜するものと認知されている特定集団に属することが、ひとりひとりのそれぞれの個性の追求/表現に代置されるからである。
この集団的個性追求が一定規模のまとまりに達することで、更にこの特定集団がブーム化し、ファッションと化すことで、更に訴求力を高め、個性化追求による画一化がより一層進行する。
だが、当局にとって、ひとびとが集まり、一定規模のまとまりに達することほどの恐るべき悪夢はない。紅衛兵とは言わずとしても、天安門に蝟集する学生あるいは法輪功信者の悪夢の再来である。
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ひとびとが集まり、一定規模に達することで、そこに組織が生まれ、それを指導する理念、価値の下、強力なリーダーシップのカリスマ指導者が運動を展開する…といった旧来の既存運動理論は、当今の中国の当局者の怯える眼には最早適合しない。リーダー不在の組織なき抵抗運動は《BE. WATER》香港ケースで充分経験済みだからである。更に言えば、中南海を取り囲み、教祖李洪志の《転法輪》を黙読するシニア法輪功信者の集団ほど江沢民総書記の心胆を寒からしめ
た不気味な事態はないであろう。況してや、整然と各地から北京に集合し、あろうことか党国家指導者の執務室がある中南海を囲い込むことを全能を誇る監視当局、公安部門が察知できていなかったとあれば、一定規模のひとびとが集まること自体に本能的な恐怖が当局には存在する。
交通秩序を妨害する行為として、当局がこの“夜騎”という学生らの集団行為の拡がりに強力な規制に乗り出したのもむべなる哉、群れることへの本能的危惧が当局のDNAに組み込まれているからである。
だが、こうした当局の厳しい姿勢に対して、学生側も周到、巧緻な対応を展開している。開封事例では政府に抗議する言葉や行動はなく、学生らが中国国旗を掲げたり、中国国歌を斉唱したり、「祖国統一せよ」と書かれたプラカードもあった。SNSにアップされた動画では、習近平を讃えるスローガンもあった。これこそ“愛党無罪”と言わんばかりの免罪符であり、白紙革命を経た若者世代の政治的智慧であろう。
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そもそも、個性追求の私的生活とは、果たして「公的生活、政治生活」と峻別され得るものだろうか。中国の若者の個性追求とて上述の通り「集団的個性」への帰依である限り、「集団的個性」も「公的生活、政治生活」の投影にして「公的生活、政治生活」の私的生活への侵食でしかない。
とまれ、時と処を選ばず、児戯に耽る若者像は後を絶たない。であるにせよ、この自転車での集団爆走現象は各地で頻発する献忠現象よりはまだ救いがあるにせよ、果たして白紙革命と同根の事態なのだろうか、しばらく推移を注視する必要がある。 [了]
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