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倦怠ー中国社会の新キーワード

 ここ数年来、“躺平”が現代中国社会を切り取るキーワードとして注目されてきた。“躺平” とは「寝転ぶ」lay flatという意味ではあるが、“内巻”の対極、つまり過度の競争に倦み疲れた若者の行動として、彼らは“躺平族”とも称された。だが、ここへ来て、“躺平” 、“内巻”に続く切り口として最近では《倦怠》という新ワードが浮上しており、注目される。

“内巻” involution


 
そもそもこの“躺平”の対極の“内巻”とは、米人類学者、クリフォード・ギアツのinvolution の中文訳とされているが、実はその中国への浸透は学術用語レベルとしてもさまざまな変遷を経ている。
 「ある文化パターンが最終形態に到達後、それを安定させ続ける方法も、自ら新たな形態へと変転する方法もないまま、不断に内部変化が複雑化」する過程としてウクライナ、キエフ出身の米人類学者、コルデンウェイス(Alexander Coldenweise)がこのinvolution概念を用いたのが嚆矢である。

Involution described culture patterns that in reaching a definitive form stopped evolving into new patterns but continued developing only in the direction of internal complexities, leading to ’progressive complication, a variety within uniformity, virtuosity within monotony.’
ー1936 essay “Loose Ends of Theory on the Individual, Pattern, and Involution in Primitive Society.”

Alexander Coldenweise

 コルデンウェイスのinvolution概念を、ギアツ(Clifford Geertz)が “内部のディテールの緻密さにより、形態自体が剛性を獲得”するものとしてインドネシア農業の労働密集化、システム内部の精細化、複雑化を“農業内卷化”と位置付けた。 

Agricultural Involution: The Processes of Ecological Change in Indonesia
(University of California Press, 1963)

 これを労働集約化と労働の限界生産性逓減を直接リンクさせ、更に展開したのがカリフォルニア大学バークレー校の明清史研究の黄宗智 (Philip C. C. Huang)で、有限の土地に大量の労働力を投入することで獲得される総産量增長の方式,i.e. 单位労働の限界效益逓減の方式を「発展なき成長」,“過密化”と論じた。これを文化社会領域へと進めたのがインド出身のデューク大学のドアラ(Prasenjit Duara、杜賛奇) で、“内卷”をある社会/文化モデルがある确定した形式の発展段階に達した後,停滞ないし別の高級模式に転化できぬ現象として、中国近代社会政治を対象に国家政権の“内卷化”を概念化した。これが社会学分野に適用されることとなり、李培林、張翼らは「内卷増長」、すなわち,外部条件の厳格な制限および内部メカニズムの制約下、社会経済文化制度の発展過程の惰性から「発展なき成長」を遂げることを“内卷化”としてこれを社会発展論等で多用している。

 農業経済学分野から歴史学、政治学、社会学領域へと浸透したこの純粋な学術用語がネット上の流行語となる。その背景として、内外の制約下の「発展なき成長」という原義のニュアンスが、激しい競争が内部に及ぶ結果、内部での損失が大きくなり、誰もが力尽き、最終的には、誰も何を得ていない状況を見事なまでに剔抉しているからである。難関、有力大学合格を目指した受験競争は無論、高成績を目指しての猛勉強、よりよい職/ポストを求めての就職競争、出世競争を形容するコトバとしてこの“内巻”が用いられる。更には、弱者が社会的強者にさまざまに搾取される(これは“割韭菜”という)といったニュアンスも付け加わり、非理性的な内部競争、意図せざる、嫌が応にも巻き込まれざるを得ない競争という意味にも拡がる。

“躺平” "Lay down flat"


 この受験地獄、出世戦争に象徴される中国社会の競争関係の冷酷さに背を向けるのが“躺平”という選択である。“躺平”、すなわち,寝そべり、横たわりさえすれば、内巻される心配もなくなり、これで周囲からの圧力に対抗するというライフスタイルの選択といってよい。

 だが、実はこの“躺平”とて決して一色一様ではない。

 第一種は虚假的躺平主義者、このニヒリストは時代競争の成功者にして“躺赢主義者”とも名付けることができる。というのも、“我爸是李剛!”と叫び、罪を逃れようとしたドラ息子事例に代表されるように、“躺平”たるには「財務自由」,すなわち,カネ目の心配のないことが必須条件、まさに“达者独善其身,窮者无可奈何”(成功者はなんでもできるが、貧乏人は…)なのだ。従って、この人も羨む成功者、幸運児の“躺平” 族は、偽(=ニセ)躺平主義者!誰もが“躺平” を望むとしても、皆がその「資本と運」に恵まれる訳ではない。

 第二のタイプは、「積極的躺平主義者」で、彼らには“躺平” への一種の自覚意識がある。「樽で日光浴」で知られるディオゲネス、洞窟の「ロゴス」とも称されるヘラクレイトスのように美麗な精神的烏托邦(ユートピア)を求めるもので,単なる“躺平” 行為をイデオロギー的躺平主義へと昇華させた。いわば、“内巻” involutionと称されるような競争激烈な名利場(vanity fair=俗世)を退出し、精神世界で自我を確定させることを探求する。

 第三のタイプは、日本の低欲望群体(“しらけ世代”?)にも類似したシゴトはするにしても上昇意欲もなくそのための努力もしないという「消極的躺平主義者」である。上昇願望を断ち、「996」(午前9時に出勤、昼休憩1時間で晩9時にようやく退勤の10時間労働の週6日制!)で命をすり減らすことを拒否する。安全、あるいは「人皆有用の用を知りて、無用の用を知る莫し」(荘子・人間世篇)という無用の用を追求するものとも言える。

倦怠社会  Müdigkeitsgesellschaft

韓炳哲
韓炳哲著(王一力訳)『倦怠社会』(中信出版集团、2019年)

 これら“内巻”、“躺平”に次ぐ現代中国社会を切り取る新たなキーワードとして浮上しているのが“倦怠”である。


 韓炳哲著(王一力訳)『倦怠社会』(中信出版集团、2019年、原書:Müdigkeitsgesellschaft》)が好評で、「清新な文風,清晰な思想,深察洞識」と張志偉、夏可君ら中国識者から高い評価が寄せられている。韓炳哲(Byung-Chul Han、ビョンチョル・ハン)はソウル生まれのドイツ在住の気鋭の哲学者、社会思想家、ハイデガーに関する論文でフライブルク大学から博士号を取得した後、スイスのバーゼル大学、ベルリン芸術大学で教鞭をとった。『透明社会』、『疲労社会』ほか20冊以上の彼の著作は英語、仏語等各国語に翻訳され、日本でも花伝社から訳書が出版されている。


韓炳哲(ビョンチョル・ハン)(横山陸訳)『疲労社会』花伝社、2021

 倦み疲れると言っても、倦怠感と疲労感は同じではない。共に体がだるい、重いといった身体的状態のことだが、激しい運動や肉体労働などある程度疲れの原因がはっきりしているのが疲労感であるのに対し、倦怠感はその原因がはっきりとは分からない。

 同書は、こうした不透明な倦怠感の背景として、セクシュアリティ、メンタルヘルス 、暴力、自由、テクノロジー、大衆文化など技術主導の社会が遭遇するさまざまな情況を探求し、特に、否定性社会から肯定性へのパラダイム・シフトによる鬱病、注意欠陥多動性障害、燃え尽き症候群などの社会病理を描いている。韓によれば、忍耐強く失敗してはならないという要求、そして効率性への野心に駆り立てられて、ひとびとは自己搾取者となり、崩壊の渦に陥るという。まさに前者こそ内巻の向かう姿である。戦争、拷問、テロなどで表現される暴力のあからさまな身体的症状が否定的な暴力であり、肯定的な暴力は「過剰達成、過剰生産、過剰コミュニケーション、過度の注意、多動性」として現れるという。内巻こそこの肯定的暴力そのものであり、その社会的病理としてたち現れるのが“躺平” となる。中国社会がだるい、重いといった身体的状態に陥りつつあることが示唆される。

  “内巻”、“躺平”にも倦み疲れた中国社会の現況を見事に摘抉したものといえよう。                                              [了]


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