泥の海を渡る⑪

12月になった。
いよいよ一時帰宅が始まった。
第1週の土曜日、主人が彼を迎えに。
散髪をし、風呂にも入り、ハニカミながら帰宅。
「おかえり」
黙って頷いた。
投薬の管理も自分でできていたこと
祖父から差し入れてもらっていた「とんぼ」を読んでいた。

発語ができなかったので
スケッチブックは必須。
病院にいる時よりは表情が緩んでいた。
良かった。
回復している。
入院中に数学の教科書も開いていたようだった。
大好物の唐揚げ。
受検前も喜んで食べていた。
大きな口で頬張る。
言葉は出ないが少しづつ回復してきている。
良かった。
夜は自室でパソコンをいじっていた。
そっと部屋を覗くと
彼がはっとした表情をして
私を見る。
そのまま笑顔で部屋を閉じた。

翌日、また一時帰宅を終えて
病院へと戻っていく。
祖母からも背中をさすってもらい、
主人の運転する車に乗り込む。
このまま状態が安定すれば
1月頃から退院、月1回の通院となる。
「また帰って来れるからね」
笑顔で手を振る。
入院中から何度、彼に笑顔で振ったのだろう。
そして
私の頬に涙が流れる。

私が彼を病気にしてしまった。
彼が病気を選んだ訳ではない。
私が悪いんだ。
いつの間にか
心の中でもう一人の私が叫んでいた。

母親失格。
社会人失格。
失格人間。

その分、職場でも家庭でも笑顔で過ごすようにしていた。
周囲から
失格者
と言われているのが十分、分かっていたから。
帰宅し、家事をして眠りにつく前に
頭をコツンと叩く。
前は1回で良かった。
ん?
2回?
3回?
叩いた?
気のせいか。
そのまま眠る。

夢の中に父がよく出てくるようになった。
父の連れていってくれた海。
でも
父の姿がいつの間にか消えていた。
貝殻を拾いながら
波打ち際に
黒い海が近づいてきていた。
私の知っている海ではない。
でも
少しずつ私の足元へ近づいてきていた。
驚いて目が覚める。

私は汗だくだった。
動悸が止まらなかった。
主人に見つからないようにそっと起きる。
大丈夫。
気のせいだ。

朝が来た。
支度をして
良い妻
良い母親
良い社会人
良い娘
になる。
笑顔で明るくて楽しい人。
失格者、なのだから。
その分、頑張らなきゃ。
来週の一時帰宅は私が担当。
いつか、留年の話もしなきゃいけないな。
そう思いながら病院へ向かう。

ふと、主人からのメッセージに目を向ける。
「罹患者が出て職場が大変なことになっている」
幸い、弟は数日前から県外合宿へ参加していた。
どうしよう。
とりあえず、マスクを2重にして病院へ向かう。
看護師に状況を伝える。
長い時間が経った。

どうしよう。
待合室にいる彼の落ち込んでいる姿が見えた。
足をバタバタさせてイライラしているのが見える。
どうしよう。
看護師が戻ってきた時からの返答は
「病院としては一時帰宅を認めることはできません」
どうしよう。
このまま帰宅したら彼はどうなるんだろう。

「このまま退院しても良いでしょうか。
私ができる限り、彼の闘病を手伝います。
教育カウンセラーの経験もありますし、
育児に悩んでいる親子の子育て相談にも参加した事があります。
検討してもらえませんか。」
自分でもびっくりした。
でも
覚悟があった。

母親失格
社会人失格
でも構わない。
でも
彼を守のは私だ。
覚悟を決めた。

今、考えると
中途半端な覚悟だった。
何も考えていなかった。
ただ、
一時帰宅したいと願っている、声が出ず苦しんでいる彼を助けたい
それだけだった。

病院から
投薬の説明を受け
急いで荷物をまとめて車に乗り込んだ。
私が
彼を守るんだ。
覚悟を決めて車のハンドルを握った。



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