下劣音質にみる、私の嫌いな人間

下劣な音質について

全ての物音には音質がある。音質というとスピーカーや音楽に限ったものだと思われるかもしれないが、そうではない。生活音や物音にも質のいい音と、そうでない音があるということだ。キーボードクラッシャー(破壊的なタイピングを行う名手のことを指して、いつしか流通している呼称)などはその最たる例だろう。
※省スペースの為以下KCとする。

KCは「奏でている」と思っているであろうサウンドも、周囲にとっては不協和音でしかない。百歩譲って不協和音を積極的に活用した楽曲作りと捉えようにも、この耳がそれを許さないのだ。つまりそれは下劣な音質ということだ。

下劣な音質、それはつまりセンスのない音質のことを指す。この場合のセンスとは、軽やかで無駄のない運指からもたらされるほぼ限りなくピアニッシモな指とキーボードの接触音と、それに伴って弾き出される控えめな打鍵音の旋律に時折散りばめられた、ごく不定期かつまばらなエンターおよびスペースキーの奏でる打鍵協奏曲の仕上がりの程度の事を指す。KCはこれが著しく低音質である。KCの奏でる打協の低音質である理由については巷に溢れている賛同の文面や、あるいはあなた自身の心の内を参照して頂きたい。
※以下省スペースの為打鍵協奏曲を打協と呼称する

下劣音質の理由、それは美的感覚の皆無

KCを初めとする低音質量産者 LQSP(Low Quality Sound Presenter)たちに圧倒的にかけているものは美的感覚である。彼らの身なりを見てほしい。決して美しいとは言い難いはずだ。彼らの言動を見てほしい。決して美しいとは言い切れないはずだ。ここでいう美的感覚とは単に服のセンスや美術的な感覚だけを表しているのではない。人生全般における「美しさ」に対するこだわりが全くもって感じられないのだ。そこにはある種の「汚感」に苛まれそうな闇さえ感じる。お言葉だがLQSPの総指揮者にとってお似合いなのは照明と喝采を浴びる人のための、不相応なコンサートホールの指揮台の上でも言わずもがなその舞台の上でもなく、バクテリアによって分解され正しい循環系へと回帰するための浄化槽の入口なのだ。

センスのない物音を立てるな

我々は、特に日本人の多くはこれに気を付けるべきだ。朱に交わって赤くなっている場合ではないのだ。我々が奏でる物音は物理的空間を通じて内面の美的感覚を世界に知らしめるシンフォニーだということをくれぐれも肝に銘じて生きなくてはならない。それが出来ない日本人が増えたから、世間では騒音問題による事件や、苦情、あるいは祭りなどのイベント行事の縮小が起こっているのではないか。

かぶらせて歌う路上シンガーに未来はない

路上シンガーがすぐ近くで歌うシンガーにかぶらせて歌を歌ったらどうだろうか。それは雑音でしかないのではないか。私の知る限り、マナーの良い路上ミュージシャンは皆、近くで演奏している人と、できるだけ重ならないような歌い方をしている。LQSPになりたいのなら、いくらでも不協和音を重ねるといい。ここでいうセンスとは、歌を歌うためのセンスではない。環境の中に存在するものとしての、時の得方(えかた)の話をしている。適切な時の得方を知らぬものに、適切な空間は確保されない。

音質とは、音質以前の問題である

自明だが、音質はもはや音質の問題ではないのだ。これは明らかに音質以前の問題である。

素人の小音より職人の大音量

先日自宅の一部をリフォームしてもらった。その際、コンクリートドリルでブロック塀を破壊する大掛かりな工事があった。「ドドドドガガガガガ!!!」でも1,000分の1控えめな表現なくらいで、その音量は妻との至近距離の会話もパントマイムに見えるほどであった。

翌日私はKCのサウンドを耳にした。その結果私は前者の方が好きであり、耐えられるものである。KCのサウンドはやはり聞くに堪えないものであると感じた。このことはその音の下劣性を決めるのが、その音の大小ではなく、音質であるということを説明するのに非常に適していると感じた。

下劣な音質とは技術的未熟の出現によるもの

下劣な音質は技術的未熟が音に現れているものに他ならない。もっともこれは技術を知っている者からしたら見方に過ぎないが。

下劣な音質の無自覚は精神的漸進性のなさの現れ

下劣な音質を出し続ける行為はすなわち精神的漸進性の欠如を自ら公表しているようなものである。

美しくないものは嫌いだ

結論、ここに落ち着いてしまうのは避けられない。私は美しくないものが嫌いである。ただその美しさとは単なる造形美や発色の良さ、粗がないことだけをくり抜いているわけではないことをご承知頂きたい。

美しさについて考えない人が嫌いだ

極論、美しさについて考えないから至極当然、そのような結果になるのだと考える。即ち下劣な音質を出し続ける人は美しさについて考える人ではない、つまり「考える人」の対極にあるからこそ嫌いなのだということができる。

考えない人は人間らしくないから嫌いだ
私は人間が好きだ。しかし、人間らしくない者は好きではない。パスカルは言った。人間は考える葦であると。それには大いに同意する。考えることそのものが人生の醍醐味であると。この世の造形がどうであれ、考えることはその造形を超えて新しい生命を吹き込んでくれる無常最先端のマルチツールなのだ。そんな便利ツールを使わない者は、人間らしさを自ら捨てているようなものであり、人間の面をした動物に近いものと認識せざるを得ない。

人間らしくない人は自分の意見がないから嫌いだ

自分の意見を持ちなさいと言われても困るのかもしれない。しかし、意見を持たないのは考えていないからに他ならない。考えれば疑問が浮かぶ。疑問が浮かべばそれを解消すべく、勉強するか、さらに考える。または体験を通じて考える。それがない人のことを私は嫌いだ。

嫌いな人に好かれる必要はないからそれでいい

私は嫌いなものについて理解することは、それでいいと思っている。嫌いなものを嫌いな理由さえ知っていれば。自分が嫌いなのは自分がいけないのではないか?などと思う必要はない。嫌いなものから好かれたって困るだけではないか。だから、嫌いなものは自分の思索の対象とすればよく、その理由が分かった時点で、それで良しとするのだ。







いいなと思ったら応援しよう!