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思考サイドと知識サイド

中学や高校の歴史教育界隈では、よく二項対立的に語られるものだと思います。
もしかしたらそれよりも年少の歴史学習でも同じかもしれない。

この議論のときには、だいたい、「知識サイド」と「思考サイド」の2大陣営に分かれてときには壮大な舌戦となります。

だいたいこんな感じになります。

知識「知識がないと、思考なんてできないだろ」
思考「知識だけでは単なる暗記になるだろ」

興味深いのは、それぞれのサイドでも、その道を追求した「究めた人たち」は、お互いの意見を尊重する姿勢をもっていることです。これについては、まあまたいつか書きたい。

僕は、というと明らかに「思考」サイドです。少なくとも心情的には。
これまでも、思考に良さそうな色んな方法を授業で試したことがあります。かなりがんばって調べたこともある。

ただ、僕も組織や集団の一員であって、組織にはそこのルールがある。それに受験戦争を戦うこどもたち、保護者の望みもある。
さらに、自分の職場が地方都市にあって、地域の保守的風潮もある。

僕が良いと思うものをみんなが良いと思ってくれるかは別問題だということですね。

あと、制限といえばこれも無関係ではないと思いますが、僕は3才の男の子の父でもある。
母ほどじゃないけれど、育児で得られるものは多いとしても、机上の勉強に時間を割けぬこともある。
そういう意味ではこれも一つの限界。

でも、そういったいわば自分の環境でできることと、やらなければならないことをバランスさせようと足掻くのは、そんなに悪くない。

だから、僕は今も暗記事項を覚えさせる授業をします。
「話を聞かせる授業」です。図や絵を見せながら語るだけ。紙芝居です。
でも、そこにわずかでもいいから両サイドのバランスを持ち込みたい。

思考サイドに憧れを持ちながら、知識型の授業をする人の言葉は、単に暗記の至上性を信じているだけの人の言葉とは、響き方が違うと思っています。

それに、暗記や知識を求める子どもも大人も、「わかっちゃいるんだけど…」って場合も少なくないのです。

くりかえしになりますが、与えられた枠の中で何かをするっていうのもさほど悪くないものです。
いつかみんなが望むものが大きく変わる日が来るならば、その日のことを想像しながら日々の授業を営むのも悪くないです。

「自由は不自由の中にあり」は、僕の妻の好きな言葉ですが、まさしくそうだという気がしています。

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