貴方のその自己愛はどこから?:世界平和哲学①
世の中にずっと哀しさを感じている。
世の中、優しい方が本当にいらっしゃらない。
私が辛いとき「大丈夫?」と声をかけてくれる人が優しい人か。
「辛かったね」と共感してくれる人が優しい人か。
ティッシュを人にあげられる人、人の悩みに傾聴出来る人、他人の気持ちが分かる人、親切が出来る人、そういう御方が優しい人な訳がない。
人を心配するなんて、多少気をつければ誰でも出来る。
「辛かったね」と言うくらいなら壺でも出来る。
この私だってする。
それは、私の優しさではなく、『そういうものだから』する。
そこに何か大きなポリシーがあるわけじゃないし、ただ形式的にそう言った方が社会に馴染めると学んでいるのだ。
じゃあ優しいとは?
”想像力”と同義ではないか。
相手の背景を想像して、そこに想いを馳せられる人。
自分のエゴに気づける人。
自分の気持ちを自分で処理出来る人。
いろんな人がいて、いろんな環境がある。
優れた人がいるわけでもなく、劣った人がいるわけでもない。
いろいろな環境で生きてきた人が沢山居るだけなのに、なぜ、みんな自分が優秀であると心の中密かに考えているのだろう。
何故人を批判するのだろう。
自分が「批判したい」と感じた相手は、何故そのような行動をしたのだろう?
どうしてそこに想いを馳せないのだろう。
理由は簡単で、その作業はとても大変で辛いことだからである。
目の前の理解出来ないことを理解することは、一筋縄ではない。
難しい勉強だって、みんな考える事が嫌で、理解することを諦めて、辞めていく。
別に、目の前の人を理解しなくても自分に損はない。勉強と同じだ。数学で、二次関数が解けなくたって人生で困らないからみんな勉強をしない。
だから、みんな、相手のこと、人のことを理解しようとしない。
相手のことを理解することは、自分を理解することだということに、誰も気づいていない。
相手を理解しようと、さまざまなことに想いを馳せる必要がある。
その人はどのような家に生まれたのだろう?
親や家族、友達からどのようなことを言われて育ったのだろう?
馬鹿とかクソとかかわいくないとかブスとか、そんなことばかり言われて育ってもなお、素直に、良い子に、自分は育てただろうか?
暴力を振るわれて生きてきて、他人に暴力を振るわない選択肢をとれただろうか?
『どんな過酷な環境で育ってきていたとしても、今の自分になれていたか?』と聞かれ、
「ハイ」と胸を張って言える人のみ、
他人に石を投げれば良い。
しかし、そこで「ハイ」と言える御仁の傲慢さは見ていられない。
人間の『罪』よりも、自分の『罪』を棚に上げて他人の『罪』を批判している人の方が、
非常に醜い。
そんなに己は偉いのか?
そんなに己は正しいのか?
己と闘っているか?
こころのなかのエゴ、虚栄心、そんな分かりやすい物でなくても、
自分を守るための人への批判、
自分が可愛いが故の人への暴言、
誰がどの口で他人に対して『ダメ』の烙印を押せるのか。
世の中には、自分が可愛い人しかいない。自分を含め。
自分が可愛くなくなったら、それはそれで問題であるが、
じゃあ仕方ないと割り切って良いのだろうか。
最近の世界はひどくて見ていられない。
他人に夢中になる前に、自分に夢中になるべきだ。
人の振り見て我が振り直せ、という過去の人の話を、
全員ガン無視しすぎである。
ガン無視しすぎ。
過去に学べよ。
人間だろ。