【作家論#2】酒井信『吉田修一論』
こんにちは、三太です。
4月も下旬に入ってきました。
少しずつ自分が受け持つ授業も始まってきています。
今年度は読書に関わる授業があります。
授業を通して、生徒たちと本の話ができるのが楽しみだなと思っている今日この頃です。
さて、今回は「作家論」の本ということで、酒井信さんの『吉田修一論』を読んでいきます。
あらすじ
本書は「長崎出身の吉田修一にとって、長崎という場所はどのような意味を持ち、その作風にどのような影響を与えているのか」という問いで論が展開されます。
このような問いに対して、作品の描写やインタビューの分析を基にして、作家の無意識に迫ります。
結論がずばり明記されるわけではなく、本文の中で一つ一つ丁寧に長崎の影響が述べられていきます。
全てを網羅することはできないのですが、結論に近い文章は終盤に記されます。
ここで問いに対して特に重要なのは「現代的な地縁や血縁の「しがらみ」に立脚した上で、「植物的」に生きざるを得ない人間の存在のあり様を捉えている」というところだと思います。
植物は「限られた土地に根を生やし、養分を吸い上げ」(p.8)ます。
吉田修一さんにとって、そんな場所が長崎であり、(長崎に限らず)その土地に住む人の言葉で小説を紡ぐという行為につながっているのだと思います。
感想
あとがきに酒井さんが吉田修一の批評文を書こうと思ったきっかけが記されます。
そのため本書は、問いにもあるとおり、吉田修一作品について「長崎」という切り口で述べられていきます。
それらの作品について、酒井さんは次のように列挙します。
本書は2018年に刊行された本なので、その後刊行された吉田修一作品でいうと、『ミス・サンシャイン』なども入るのかなと思いました。
いずれにせよ、主にこれらの作品から読み取れることを酒井さんは紡いでいきます。
酒井さん自身も長崎出身で、高校も吉田修一さんと同じ長崎南高校で同じであり、そんな著者だからこそ書けた文章だなと感じるところも多々あります。
例えば、次のような文章です。
「ブルー」というのはいわゆるブルーカラー(肉体労働者)、ホワイトカラー(頭脳労働者)の「ブルー」です。
長崎南高校の校区からどんな人たちが通っていたかという、とてもローカルな話題はやはり通っていた人しかわからないだろうと思います。
このような学校に通っていた、あるいはそのような地域(本文では「小島」という地名が出てくる)に住んでいた吉田修一さんだからこそ、(「ブルーカラー」の人が単純にそうというわけではないですが)ヤンキーの描写が上手いと酒井さんは述べます。
本文ではこのように川端康成とも比較されます。
そして、酒井さんは次のようにも述べます。
ここでは川端康成と比較しながら吉田修一について述べられていますが、他にも長崎出身の作家・村上龍との共通点も指摘されます。
例えば、村上龍の『69 sixty nine』を引用したあとに、次のように述べます。
他にも、
このように先行する作家と比べながら、少しずつ吉田修一さんの実像に迫るというのが本書の特徴でもあります。
酒井さんは大学の先生ですが、本書はあまり研究書という感じではなく、どちらかというと読み物に近いのかなと思いました。
例えば、村上龍が地元・佐世保港の風景を述べた文章について、次のように述べられます。
描写の仕方を漁師にたとえるのは、独特な比喩だなと思います。
他にも、酒井さん自身が長らく住んでいた新大久保でのちょっと変わったエピソードが引用されるなど、とても個人的な文章もいくつか出てきます。
そういった点も含め、楽しんで読める本だと思いました。
その他
・映画が好きだったから吉田修一さんは上京したという話が出てくる。(p.60 阿川佐和子さんのインタビューより)
・本書では、マルティン・ブーバーの「我と汝」という考え方や江藤淳の文章やカナダの地理学者エドワード・レルフの考え方などが引用され論が展開する。
・『長崎乱楽坂』のヤクザを述べるために出てくる「再開発」(p.264)というワードは渡邊英理先生の『中上健次論』の切り口と共通するのではないかと思いました。
では、今回はここらへんで終わろうと思います。
2回目の「作家論」のまとめとして吉田修一さんを取り上げられて良かったです。
今、本棚には平野啓一郎さんの『三島由紀夫論』と井上隆史さんの『大江健三郎論』があるので、次はどちらかを読めたらいいなと思っています。
それでは、読んでいただき、ありがとうございました。