【映画感想】 『ほかげ』 塚本晋也監督作品_2023年公開
*画像は全て、公式サイトより
『ほかげ』は2023年公開、塚本晋也監督作品。2024年8月に、DVDとBlu-rayが出たそうだ。
WOWOWで放送されたものを録画して、長いこと見ないでいた。
何年か前に『野火』を見た痛みがいまだに、ぐっさりと頭に刺さったままだからだ。
『ほかげ』も、見なくてはいけないと思いながら、なかなか再生ボタンを押せなかった。
見たら、やはり辛くて心も頭もぐちゃぐちゃ、まともな感想になりそうもない。
🎥 登場人物、前半あらすじ
登場人物は主に、4人。
7〜8才と見える「戦災孤児」(塚尾桜雅、
居酒屋で酒と共に体を売る「女」(趣里)、
元教師という「復員兵」(河野宏紀)、
街で絡まれる戦災孤児を助けた「テキ屋の男」(森山未來)。
前半は、戦争で家族を失った3人が、互いの辛い境遇を思いやって、束の間、ともに過ごす。
だが戦争の恐ろしい火は消えることなく、彼らの内側を蝕んでいく。
「復員兵」は物音に怯えて暴力を振るい、3人の生活は壊れる。
「女」も次第に、「戦災孤児」との距離感が狂い始める。
この「復員兵」の暴力がきっかけで、「戦災孤児」が銃を持っていることが分かる。
後半は「戦災孤児」が、「テキ屋の男」(森山未來)に手伝いを頼まれて連れ出されていく。
男の目的は、「戦災孤児」が持っている銃である。何に使うのか、「テキ屋の男」は明かさないが、一緒にいるうち「戦災孤児」は察する。
🎥 突き刺さる、画の力
前半も後半も、役者の芝居が見事なのだが、わたしが圧倒されたのは、後半、「戦災孤児」が「テキ屋の男」と一緒に歩き回る中で目にする、離れ(?)に隔離された男だ。
彼も復員兵らしい。
彼は、戦争の記憶に苛まれて苦しみ、己の頭や顔を激しく叩く。
握り飯を運んできてくれた母親の手に縋って言う。
「屋根の上を見てくれましたか。子供たちがたくさんいるんです。早くしないと落ちてきてしまいます」。
もちろん、そこは民家で、子供たちの姿など無い。しかし彼の心はまだ戦争の只中にいて、その音を聞き、その景色を見ている。
この、人と亡者の間を行き来するような表情、気配のゆらめき。
「テキ屋の男」が姿を見せたときの、歯を剥いた静かな威嚇と、話すうちに浮かぶ、救いを得たような表情。
「テキ屋の男」が何と声をかけたのかは、唇の動きが映されるだけで明示されないが、「テキ屋の男」がこのあと起こす行動によって推測できるようになっている。
窓の格子を挟んで立つ、「テキ屋の男」と隔離された男の引きの映像は、もう、これ以外ないだろうという構図。
差し込んだ白い陽を受ける、格子の中の横顔、前へ傾いだ首の角度。
夏の、真昼のシーンなのに、背筋が寒くなる、彼岸と此岸を切り取った画面。
この離れのシーンが、わたしは一番怖かったし、辛かった。
同時に、なぜか懐かしい、自分も見たことがあるような気持ちになる。
🎥 「戦災孤児」の目
「戦災孤児」を演じる塚尾桜雅の存在感も凄い。
セリフは少ない。黒い瞳で、ある時は睨むように、ある時は自分の無力さを恨めしがるように見つめる芝居が占める。
正直なものは、怖い。
その代表例が、子供の目ではないかと、この映画を見ていると思う。
登場の、盗んだカボチャを齧る、ウロのような目から始まって、ひねた目、心を和らげて笑った目、詰る、怯む、慕う…。「戦災孤児」の目はさまざまに色を変える。
この遠慮のない目の力は、年齢を重ねるごとに失われていく正直さだと感じる。
「テキ屋の男」の目的が遂げられて解放され、「戦災孤児」は「女」の元に帰ってくるが、病気になってしまったから一緒に暮らせない、銃は置いて真面目に働けと、突き放されてしまう。
「戦災孤児」は言う。
「戻ってこられなかった兵隊さんは、怖い人になれなかったんだよ」。
うわあ来た、と思う。
夫を亡くした「女」にとって、この言葉は、いくばくかの慰めになるだろう。
一方、いま生きている我々は「怖くなれた」人の末裔という意味だろうか、と心臓に冷たいものが流れる。
さあお前はどうだ、という問いかけ。
被害者あるいは傍観者だった自分の位置が、「戦災孤児」の一言でガラリと反転する。ああ、塚本晋也作品はこれが本当にしんどい。
🎥 突きつけられる、戦前という「今」
『ほかげ』は、終戦直後のこの国の、ある人々の姿。
しかしそこに重なって見えるのは、戦前と言えそうな、いまの姿。
「戦災孤児」が手に入れた銃に重ねて描かれているのは、未来の戦争(武力)、あるいはそこにつながる「武器」だろうか。
禍々しい威力を持つ鉄の塊に、ひとは平伏し、恐れ、その力を欲して奪い合う。
銃(武器)の存在は、戦時中の上官への復讐を決心できずにいた「テキ屋の男」の背中を押してしまう。
残った一発も、映画の最後でおそらく「女」によって使われる。(とわたしは思った。)
銃(武器)は、初めは立場の弱い「戦災孤児」と「女」を守ったかに見えたが、最終的にはみんな壊してしまう。
「女」に言われたとおりに「戦災孤児」は銃を手放して、真面目に稼いだ10円を「女」のために使おうとする。そんな健気な思いも、最後の銃声が撃ち砕く。
銃声を聞いて、手にしていた女性ものの服を放り出し、「戦災孤児」は闇市の人波に消えていく。
やりきれないラストだ。
「戦災孤児」が表すものは、これからを生きる若者か、もっと広い未来か。そこに、自分の子供もきっと含まれるだろう。
わたしも映画に登場する大人のように、「戦災孤児」を振り回して利用して、あんな悲しい目をさせて放り出す一人になるのだろうか。このままいけば、そうなる、とこの映画は言っている。
🎥『ほかげ』を見る、わたしではない、わたし
亡き祖父の書棚に並んでいた郷土昭和史に、出征した人々の手記や手紙、戦争被害の記録があったことをわたしは憶えている。
これが祖父が経験した戦争なのかと、子供の頃にこっそり読んでは震え上がった。
祖父は寡黙で、読書家で、きれいな字を書いた。
口調は穏やかだったが、どこか、人を寄せ付けない雰囲気があった。戦争のことは、とても訊けなかった。
わたしは祖父が亡くなるまで、祖父の前ではできるだけ子供らしい振る舞いを心がけていた。
戦場で、嫌だ嫌だと泣きながら「怖く」なった一人は、祖父だったかもしれない。そうでないかもしれない。何にしても、戦争を経験した祖父の血が、わたしの中に流れていることは間違いない。
祖父たちが、わたしの中から『ほかげ』を見ている。
だから、これは終わった物語ではない。映画のキャッチコピー「戦争が、終わったんだ」は、きっと文字通りではない。
家の離れで、子供たちの命を思って泣く男の悲しみ、苦しみ。
そういう息子に握り飯を運ぶ母の痛みと戦争への怒りが、いま生きるわたしたちの中に流れているなら。
『ほかげ』で「女」が銃を持ってちゃいけないと繰り返したように、我々は今度こそ、「殺す」という選択を無くさねばならない。