ヒトは、人でもあり「人でなし」でもある_映画『十一人の賊軍』 2024年公開【映画感想】
*ネタバレしております。ご留意ください。
監督は白石和彌。
『孤狼の血』の監督。今作も大量に血が流れる。
目を覆いたくなる戦闘シーンが続く。『孤狼の血』では思い至らなかったが、容赦ない暴力シーンでしか表せない、現実の過酷さ残酷さがあるのだろう。
個人的には、尾上右近がほぼずっと画面にいたしセリフも動きもたくさんあって楽しめた。
あらすじ
物語は、戊辰戦争の頃。
新政府軍が江戸の無血開城を経て、さらに北上してくる途中である。
慶応4年の7月下旬、新潟の新発田藩における4日間におよぶ砦の攻防を中心に描かれる。
新発田藩は、旧幕軍側として奥羽越列藩同盟に入るか、新政府軍側につくか決めかねている。
同盟軍の使者が城へ来て、同盟への参加を迫る。一方で新政府軍が近づいている。
両者が鉢合わせして領内が戦場になるのを避けたい新発田藩の家老溝口(阿部サダヲ)は、真意を隠して、同盟参加を望む鷲尾(仲野太賀)に、砦で新政府軍を食い止めるよう伝える。
2日間だけ持ちこたえてくれれば良い、という話だが人手が足りないため、駆り出されたのは死刑を待っていた罪人たち。
藩の行く末など頭になく己の命だけ考えている10人の罪人、家老の娘と結婚が決まっていて功名に燃える入江(野村周平)、罪人を人間扱いしない藩士たち。
鷲尾(仲野太賀)は彼らをどうにかまとめて任務を遂行しようとする。
新政府軍は、奥羽越列藩同盟からこちらへ寝返る藩があればこの先が有利だと考え、交渉しに砦に使者を寄越す。
だが、砦を守る、としか伝えられていない罪人たちは先手必勝とばかり斬り掛かって交戦になってしまう。そこから、砦は憎しみ合い殺し合いの激戦地となる。
約束の2日が経っても、城から合図の狼煙は上がらない。
戻る場所もなく追い詰められていく鷲尾たち。しかも自分たちが知らされていなかった家老側の意図が明らかになっていく。
役者たちの激闘
まず、奥羽越列藩同盟の新潟総督を演じる、松角洋平が口を開いた瞬間、東北弁の上手さに仰け反る。Wikipediaを見ると長崎県のご出身。え、南。なのに東北言葉の、独特のこもった感じが見事に出ている。
WOWOWのドラマ『TOKYO VICE』でも渋い芝居に唸ったが、方言も自在だとは。
山田孝之、尾上右近をはじめ10人の罪人は、当て書きですか?と思うほどきれいにハマっている。
このハマり具合が効果的で、闘いが進むにつれて一人また一人倒れていく辛さ、闘いの虚しさが際立っていく。
大切に思う家族があり、将来の望みがある「人間」が、藩という「記号」になり、死体という「数」になっていく悲しさ。
新政府軍の先鋒総督府・軍監を浅香航大。
潔癖気味の好戦的性格に徐々に火がつき、砦の闘いで仲間を失って殺意剥き出しに「殺せぇエエエエ!」と命じるところへと、人物が細かく表現されている。
砦の内側だけでなく、新政府軍の側も友情や上官への憧れと尊敬など人間味が描かれることで、よりやりきれない泥沼ぶりとなっている。
砦を守るミッションを負う、鷲尾を演じるのは仲野太賀。
公式サイトのコメントに「殺陣は初めての挑戦だった」とあって驚く。とてもそうは見えない堂々とした身体の使い方。
罪人10人の中に、爺っつぁん役で「東映剣会」の本山力がいるのだが、素人目には爺っつぁんに負けない、腰の据わった殺陣である。
ちなみに本山力が演じる爺っつぁんは、最期の名乗りで上州の剣術指南役だったことが明かされる。どうりで!という強さ。刀から槍に持ち替え、浅香航大たちを相手にした殺陣は痺れる美しさ。
砦の面々、新政府軍、そして奥羽越列藩同盟と力ある役者が揃う中、新発田藩は家老の阿部サダヲを含めて配役がやや弱いように感じる。
藩主に至ってはいろいろ下手くそなのだが、これは見る側に「アァ…(嘆)」と思わせる作戦的な配役なのだろう。
とはいえ、家老側が単純な悪役に描かれているわけではない。
新発田藩は周辺国から搾取されて厳しい立場にあり、戦況を見ても奥羽越列藩同盟に参戦するのは得策でないのに、譜代や親藩に囲まれていて思うように動けないという、藩政に携わる側の苦悩も提示される。
この、笑わせる要素もなく、ぬらくらしてはいるが軽さが求められるわけでもない家老役に、なぜ阿部サダヲなのだろう、と前半は思っていた。
この疑問は、砦で持ち堪えた罪人たちを始末しにやってくる終盤でようやく、しかし一気に解消される。
仲野太賀が演じる鷲尾の狂いそうな熱さに対して、それを肩透かしする、爬虫類のごとく冷え冷えとした阿部サダヲの家老・溝口。
領内での戦を避けるという目的は同じくしながら、砦の後始末では考えが真逆の2人。まばたきもせず鷲尾を撃ち抜く溝口の、白い顔の怖さ。
なるほど、このための阿部サダヲだったのだと納得。
自分は11人目の賊軍だ、と鷲尾は宣言して命尽きるまで刀を振るう。スクリーンから飛び出してきそうなど迫力だ。
迫力といえば、スクリーンで見るだけでも砦は自然だらけの崖っぷち。
この中で派手に吹っ飛ばされたり転げたり、ずぶ濡れの土まみれ、干上がるような陽射しまであり、そうとう過酷。
その中で登場人物は多く、埋もれまいと一瞬一瞬に役者の芝居が凝縮されている。官軍賊軍問わず、なにかそういう意味での「生き残ってやる」の気迫もある。
さいごに
容赦のない戦闘シーンでしか描けない問いもあると教えてくれる作品だった。
侍も死も、美化はない。
砦側は、10人の罪人ほとんどが、刀も鉄砲も使ったことがない。
たまたま見つけた石油(劇中では黒え水、と呼ばれる)を武器に応戦するが、ほぼ丸腰と言える彼らが、新政府軍の大砲に砕かれ、家老側の鉄砲隊やピストルで穴だらけにされる。
死んでたまるか、と言った次の瞬間に物言わぬ骸になる。
そうやって死んでいった彼らを領民も知らず、長岡藩みたいにならなくてよかった、これも家老や殿様のおかげ「めでたいめでたい」と舞い踊る。
そして鷲尾のことは表情ひとつ変えず死なせた家老・溝口が、娘の自害には我を忘れて慟哭し、遺骸に縋って詫びる。
なにが罪で、なにが善なのだろう。
戊辰戦争に揺れる小藩が、ズームアウト、ズームアップを繰り返して描かれるのを見ていると、登場人物に自分自身を重ねたり、あるいは先の大戦が重なったりと、こちらの感情も揺さぶられる。
長文お読みいただき、ありがとうございます。