見出し画像

オンデマンド放送がないのが残念! WOWOW コクーン歌舞伎『夏祭浪花鑑』

*この記事は2023年11月にAmebloに投稿したものを加筆修正しています。

これ、すごいので機会あったら是非ご覧いただきたい、と思ったのだけれど、WOWOWオンデマンドでは配信がないことに翌日になって気づいたという迂闊。

21年の渋谷コクーン歌舞伎、『夏祭浪花鑑』。

まず、団七九郎兵衛の義父で殺され役の、嫌なやつ「義平次」を演じる笹野高史に、脱帽。

勘三郎のときもこの役をしているからかもしれないが、あまりに馴染んでいて驚く。

これまで見た中で最強、強烈壮絶な義平次だ。

嫌なやつ、憎々しい男が、しぶとく追い縋ってくる様は、生きている人間だからこそ、怖い。

歌舞伎では、役者が手にする小道具も実に良い芝居をするのだが、義平次が不機嫌そうにバタバタさせる破れ扇も、破れ具合、汚れ具合、大きさにしなり方に、惚れ惚れする。

殺し場での団七九郎兵衛(中村勘九郎)とのやりとりは、息をするのを忘れて見入ってしまった。
引き込まれる、なんて短い言葉で表すのはもったいない。

たくさんのロウソクを使った、面(つら)明かりも効果抜群だ。

生で実際の舞台を観るのも、きっととても良いだろう。

でも、この映像でしか観られない角度、近さが面白い。

客席からは味わえないのでは、という近さと角度の映像が続く。

自分が、ある時は義平次になり、あるときは団七になり、またあるときは、役者の足元から明かりを差し出す黒衣さんになったかのような、動きのある映像にどきどきワクワクする。

年始の歌舞伎中継とは全く違う。
テレビで見る、歌舞伎の記録映像や資料映像とも違う。
シネマ歌舞伎や、歌舞伎や文楽の演目を題材にした映画のように映像作品の部類に入るのだと思うが、これまで見たどれとも違っていた。

正直、見始めは、カメラがちょっと役者に寄りすぎ、そして凝りすぎで、芝居が小さく見えるのではと感じるのだが、(実際、尾上松也のお辰はその傾向がある)殺し場あたりから、カメラワークは超絶効果を発揮する。

義平次と団七九郎兵衛のやりとりは、引きの映像から次第に、団七の感情の昂りに引き寄せられるように、寄りに寄りにと変わっていく。

団七の眼球の動き、ヒクつく口の端、流れる汗、荒々しく漏れる唸りと息。

絵にも描けない美しさ、とはこういうことなんじゃないか、と思うほどの一瞬一瞬を、カメラがおさえる。

映像のひとつひとつの角度が、計算し尽くされている。

くう、と膝を打ちたくなるほど、似ている。見えてくる。

年々、中村勘九郎が父・勘三郎に似てくるのは、声だけではない。

やや後ろからの横顔、見上げたときの顎と目元。セリフからセリフへの間合い。

かつて観た勘三郎の団七九郎兵衛と、凄まじい熱量で光り輝く勘九郎の団七九郎兵衛が、重なりあい混ざり合う。

胸が締め付けられるような懐かしさと、心を湧き立たせる驚きと新鮮さが同居する。

しかし、「似ている」とは、別だということ。

全てがやがて、当代の中村勘九郎、に強烈な光とともに集約していく。

ミニ勘三郎でもないし、ポスト勘三郎でもない。

勘九郎が演じると、その役には他の役者では出ない、ほっこりとした温かさが宿る。歌舞伎を劇場で見ている頃、そう感じていた。

それを失くさないまま、勘九郎はさらに素晴らしい役者になった。

映像で観る歌舞伎に、こんなにも力があるとは、知らなかった。

わたしが大好きだった歌舞伎は、まだここにある。

そう思った。

映像の工夫は最後の最後まで続く。

殺し場のあとの、白黒ならぬ灰と黒のような色調もいい。
障子を開けて出てきた団七九郎兵衛の、すっかり何か壊れてしまった感じに背筋が寒くなる。

理由はどうあれ義平次を殺してしまった団七九郎兵衛はお縄になるのだが、幕切れと、そのあとまで、楽しい映像作品だった。

とにかく素晴らしいので、録画した分をおそらく何度か見返すと思う。

しかし映像だけで完結しないのがまた凄いところで、今度は劇場へ行ってみようかな?という気持ちにさせる。

これは映像だけの力ではなく、中村勘九郎という役者の魅力だろうなあ。