古川日出男「平家物語 犬王の巻」から見る文学の身体性とアニメーションについて
2017年に出版された古川日出男「平家物語 犬王の巻」を原作として、湯浅政明監督のアニメーション映画「犬王」が2022年に公開された。
この映画は、小説が原作であるにも関わらずミュージカル作品であることが特徴である。そして能楽がメインテーマでありながら現代のロックと調和させながら描かれている。
この記事では、文学作品がアニメーション化されること、そして、古川日出男「平家物語 犬王の巻」から映画「犬王」が制作されるにあたって古川日出男の描いた身体性がアニメーションにどのように生かされたのか個人的な考えを述べていきたい。
以下ネタバレ注意
あらすじ
南北朝時代、犬王と友魚のダブル主人公で物語は進む。
犬王は、能楽の一座である比叡座に未子として誕生した。比叡座の棟梁である父が、演者としての大きな力を得るためにこの世ならざるものと契約したため、その生贄として異形かつ醜く生まれてしまった。そして、犬王は醜いが故に周囲から疎まれ忌まれており、人間としての扱いは受けていなかった。
同じく平家の呪いで盲者となってしまった琵琶法師の友魚は、道中偶然犬王と出会うが、自身の盲目ゆえ犬王の外見を見ることはなく、彼を恐れなかったため、二人は良き友となる。
犬王の身体中には、犬王の父が生贄として殺害した琵琶法師の魂が大量に取り憑いていた。そして彼らが持つ物語を犬王が能楽で舞い、歌うことで彼らの魂は成仏し、犬王は褒美として元来の身体の美しさを徐々に取り戻していく。
その中で、犬王と共に友魚は、友一、友有と名前を変えながら平家の物語を歌にし、舞にし、人気を博していったが、南北朝統一によって平家の正本が作られるにあたって彼らの語る物語は追われる対象となった。
犬王はそれを受け入れ新たな平家をもう演じることは無かったが、友有は拒否し、処刑されてしまうという物語である。
文学作品のアニメーション化は文学にどう影響するか
文学作品が原作となりアニメーション化することについて、現代では多くの意見が交わされている。特にアニメーション化に対して反対派の意見としてよく挙げられるのはイメージの固定化であろう。
文学作品において情景、人物の顔、声など文字で記載されているものを最終的にイメージし想像で補い完成させていくのは読者である。しかし、映像化するにあたってその作業は省かれ、それが正解の表象であるというかのように情景、人物、その人物の発する声のイメージは固まってしまう。それが文学作品をアニメ化するにあたって一番議論となり懸念される点である。
実写化もある程度そのような特徴を有しているとは言えるが、実写においては俳優が演じるためイメージが完全に確立されることは少ない。しかしアニメ化するにあたって、キャラクターデザインをする時点で一からキャラクターを画像として書き出してしまうから、イメージの固定化につながってしまうのである。
古川日出男「平家物語 犬王の巻」と映画「犬王」との比較
前述のイメージの固定化は、程度の大小はあれど、アニメーションとして完全に映像化されるにあたって避けられないことではあるだろう。では、この映画作品「犬王」はイメージの固定化をどのように反映させ、利用し、そして原作をいかに表現したのだろうか。
この映画内では、原作と違う描写、もしくは原作では言及されていないことについてより詳しく描かれている、または場面が追加されているなどというシーンが幾つかある。その例としてここでは3箇所確認したい。
まず、犬王は殺された琵琶法師たちが持っていた平家の物語を語り、舞うことによって異形から尋常の体を部分ごとに手に入れていく。その描写は原作でも描かれるが、明確なシルエットの歪みなどは原作上では不確定である。しかし、この不確定さはアニメーションにするにあたってある程度確立されなければならない。そのために明確な犬王のシルエット、そしてその変化が固定化された。
また、犬王の父が様々なものを生贄に自分の華、他の座を凌駕する力を手に入れるために取引、契約をした対象は小説内では「封印された術」としか記載されていないが、映画では能面のような見た目で、黒く蠢くようなおどろおどろしい見た目として描かれている。
そして、映画と原作で全く違う特徴として挙げられるのは、ミュージカル的要素、能楽をロックと混じえて表現したという点である。もちろん原作で、映画のように友魚がバンドを組む、また、クイーンの「We Will Rock You」を感じさせるようなリズムで踊る、ライブのように観客を扇動し共に盛り上がるというようなことはなく、これは監督の湯浅正明を筆頭に映画の製作陣が施した脚色といえるだろう。
文学の身体性とアニメーション
しかし、このような、固定化や脚色は、映画の独自性を生み出しているが、果たして原作を蔑ろにしているといえるのだろうか。
原作の著者である古川日出男は、この「犬王」が公開されたのちのインタビューでも語っているが、文学内に身体性を見出している。このことは、古川が自らの作品を朗読する機会を多く持っていることでも明らかであろう。
古川によると、能の脚本である謡曲からは舞と音楽が生まれるため、文学の身体性に着目している傾向にある自身としては関心の高いジャンルだったという。
そして、湯浅はこの舞と音楽をミュージカルとロックで表現したのである。映画「犬王」は、湯浅自身の「平家物語 犬王の巻」に対する読者としてのいち解釈であり、古川と湯浅の能に対する解釈か類似していたために調和した作品になったのではないだろうか。