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千本ノック1:巻きタバコ

紫煙は揺蕩いながら上にあがり、天井を這ってゆく。窓を細く開けてはいるが、この部屋には空気の流れがない。埃が光に舞ってちかちか光っている——


海野一樹(いつき)はひとつ息をついて顔を上げた。
「所長~、明日までの原稿チェック終わりましたんで、所長チェックお願いします。」
「ありがとさん、ごめん、そこの上置いといてー」
本の間からくぐもった声がして、紫煙がまたほっと上がった。

一樹は去年の夏からこの小さな出版社で働いている。とは言ってもバイトとして、大学に通いながら週に1,2回顔を出している程度だ。


一樹が受けた所長の最初の印象は、「てやんでいって感じ」だった。浅黒く焼けていて、昭和の刑事みたいな橋渡しの逆台形の眼鏡をかけ、これまた昭和の刑事みたいな埃の舞う事務室にどかりと座っていた。「面接を受けに来ました、海野一樹です」と声をかけると所長は書類の間から顔をのぞかせて数秒間一樹の顔を凝視したあと、急に破顔して手招きで一樹を呼び寄せ、一息にこう言った。

「君は文章を読むのが好き?書くのは?どっちかあればいいよ、君はいい顔をしてるからきっといい仕事をするだろう。ここで一緒に働こう。」

面接というので緊張していた一樹はこの言葉にすぐに反応することができず、つい所長の双眼をまじまじと見つめてしまった。意外にも長い所長のまつげと小さな泣きぼくろを観察しながら、やっとのことで「本当ですか」と言った。

その素直な驚きの様子がおかしかったのか、所長は「ようこそ、一穂社へ」と言って少し笑った。


4回目に出社したとき、読んでいた原稿の中に「やに臭さがたまらなくなって」という描写があって、一樹はふと気づいた。
「あれ、所長のたばこは臭くないですね…。」

背中合わせに座っていた校閲部員の足立真由子が、「だって所長のくわえてるのはたばこじゃないもの」と少しおどけるような口調で呟いた。
「そうなんですか、どうりで。」
「だってそりゃ、編集部がやに臭い原稿回してきたら大問題じゃない」
「ああ、たしかに…。じゃあ、社長がくゆらせているあれは、なんなんです?」
「あれはね、おもちゃよおもちゃ。禁煙用の電子タバコでもない、ほんとのおもちゃ。所長がここを立ち上げた時、禁煙を決意したんですって。電子タバコは高いのにありゃタバコじゃなくて馬鹿らしいから買わんっていって、いっぺんにやめちゃったのよ。」
「へえ。」

そこまで聞いて、一樹は自分が「昭和の男、所長」の姿をイメージする時、その指の間には巻きたばこが挟まっていたことに気づいて苦笑した。自分の凝り固まったステレオタイプが、イメージの中の所長を形づくり彩っていた。

ふと所長の席に目をやると、所長の姿はやっぱり書類の山の中に隠れており、時折椅子が揺れる音がするばかりだ。足元は事務員の机に隠れて一樹の席からは見えないので、所長本人が本当にそこに座っているのかさえ怪しい。

でも、所長の息づかいが部屋の端々まで行き届いたような、埃っぽくて雑然とした編集部室は「部室」とつくように学校の部活動みたいで、薄暗い部屋には明るい人々が働いていた。

一樹は何気なく、「ここで働きたいな」と思ったが、口に出ていたらしい。足立真由子が「あら、一樹くんここに入社してくれるの?若くて優秀な子が来てくれたら、この薄汚れた職場も華やぐわあ」と言ってみせたので、周囲の三、四人の社員が小さな笑い声を漏らした。

「ああ、声に出てましたか」と一樹が反応する隙もなく、所長が音を立てて立ち上がったので、全員の視線が所長に集まった。
「一樹くん、やっぱり言った通りだろ。君もここが気に入るし、君は編集部にとって必要な存在だ。」

「あれ、一樹くんがここを気に入るだろう、なんて、所長言ってましたっけ?」
すかさず返す足立の訝しげな声にみながほおを緩めた時、もう一樹は考えることもなく立ち上がって頭を下げていた。

「これから、よろしくお願いします!令和を担う編集部員になってみせます!」

みながどっと笑って、一樹は拍手の雨に降られた。

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