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再び「チーズはどこへ消えた?」を読んで〜受け取る印象が変わった!?

スペンサー・ジョンソン氏の著書「チーズはどこへ消えた?」を読んで、そのとき感じたことをnoteに書き綴り、余韻にしたりつつ一夜を明けた。

机のうえにおいた書籍を目にして、なぜか「もう一度読んだら、心にどんな印象をうけるだろうか…」と思い、改めて読みはじめてみた。

チーズが消えたときの行動に…

スニッフとスカリーは、発見したチーズを毎日観察し変化がないことを確認してから、食していたが、ヘムとホーは違った。「そこにあるチーズがなくなるはずがない」という、根拠のない理由を掲げ、目の前にあるチーズを食べ続けてしまう。

観察することもなく、ただ食べ続ける小人たち。

そしてある日、目の前にあったチーズが消えてしまう。スニッフとスカリーは、食べる前の観察で「チーズが少なくなっている」ことを理解していたため、いつかチーズがなくなる日がやってくることもイメージができていた。

だから、なくなったチーズを見ても冷静に「探しに行こう」と、迷路の中に身を滑らせていった。

だが、ヘムとホーは違った。なくなるはずのチーズがなくなったことで、「なぜこんなことになったんだ」と慌てふためく。

なぜなら生活の中心的な存在になっていたからだ。

それからヘムは、現状を把握しチーズがなくなった原因を調べはじめる。ホーは茫然自失となり、何もできずに佇んでしまう。

2人の行動の違い


ヘムはチーズがなくなったのは、我々のせいではなく他の誰かが悪いんだと思っていた。そしてこんな目にあったんだから、何かをもらう権利があると考えていたのだ。

ホーは、いろいろ考えて分析してもチーズはかえってこない。だったら、この場所はあきらめて、スニッフとスカリーのように次のチーズを探しにいくべきだと考えていた。

そしてホーはヘムに「探しに行こう」というが、ヘムは頑なに「ダメだ、なんとしても原因を究明するんだ」と、その場を動こうとしなかった。

ヘムはチーズがなくなったことを「他人のせい」にし、それに対する「見返り」があるべきだと、次の行動をとらなかった。ホーは、目も耳もふさいで目の前でおきている「チーズがなくなった」という状況から現実逃避をはかった。しばらくしてから、目を開けたホーは、周りを見渡しスニッフとスカリーがいないことに気がつく。

そして、自分たちも現状の変化を受け入れて、行動するべきなんだと考えたのだ。

仕事でおきていることに置きかえてみる

この2人の思考を、自分の仕事に置き換えても考えてみる。

上司から依頼された業務でミスしたとき、あなたはヘムとホーのどちらで、事態を受け止めるだろうか。

ヘムのように「上司からの指示が間違っていたのではないか」や「自分の抱えている仕事量を把握していない」など、業務ミスは自分以外に原因があると主張するだろうか、ホーのように、事実を受け止めるまでの時間は長短があるが作業ミスを受け止め、同じミスが内容に修正したり、メモを残すなど次の手を考えるだろうか。

自分はホーに近い発想だが、仕事のメンバーでヘムではないかと思える人物がいる。

その人物の特徴は、「言われたことを理解しない」、「同じミスを繰り返す」、「注意されても改善しようとしない」、「注意されていることに反発する」など、キリがないほど上がってくる。仕事上では使えない人物だが、自分がさまざまなことを学ぶうえで反面教師とすることができる。

ヘムの発想は、自身の成長どころか、仕事が依頼しづらくなり、最後は消えるしかない。

スニッフやスカリーのような発想で行動したい

作業ミスをいきなり「自分が悪い」と、とらえることはかなり経験がないと難しいだろう。

だが、すぐに作業ミスの原因を「自分」と思える人は、次に講じる手段がすでに頭の中にあり、それを実施するために必要なものを上司に提案する段階まで思考が進んでいる。

この発想は、なくなったチーズを目の当たりにしたスニッフとスカリーの発想だろう。もしかすると、普段の周囲観察からチーズがなくなることをしっかりイメージして、どう行動するべきかを考えていたのかもしれない。

仕事でも私生活でも同様で、周りの変化に注意を配り、変化を感じたらどうするべきかを考えて行動するかを想定しておいた方が良いのかもしれない。これは「備えあれば憂いなし」という諺に近しいことなのかもしれない。

ヘムとホーとの出会いは、人生の歩み方を変える大きな一歩になったことは間違いないといえるだろう。

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