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ヒカリとカゲ 箱入り令嬢の夢見がちな日常 第三話③

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第三話 お医者さま③


共闘

蓮乃宮女学院高等部では、ちょっとした騒ぎが起こっていた。

「どういうことなの!? 姫華さんがあの女と……」

「人払いまでなさるなんて!」

女の子というのは何かと大袈裟だ。

ヒカリと姫華が、ランチを共にしているだけなのに。

護衛の鈴木さんは、表向き普通に給仕をしてくれている。

姫華について食堂へ向かおうとしたら、カゲは面白くなさそうな顔でフイと姿を消してしまった。

姫華の計画に乗ったことを見抜かれているのだろうか。

こんな姿を見られなくて良かったような、不安なような。

でも、やはり心許なさの方が大きかった。

「とにかく、奥さんについて良くない噂を流すの」

姫華がステーキにナイフを入れる。

「でも、まったくの嘘では信じてもらえない。まずは情報収集が必要よ」

真っ赤なドレスはまるで戦闘服だ。

やはり、彼女には迷いがない。

「で。あなた娘と仲が良いんでしょ? いろいろと訊き出してちょうだい。それとなくね」

協力っていうか。アンタ、命令してるだけじゃない。

ヒカリは、げんなりしながらパンにバターを塗りつけた。

「公園に行けば会えるだろうから別にいいけど」

子供と遊ぶのは嫌いじゃない。
美亜ちゃんのことも。

でも、誠先生の子供だと思うと、ヒカリはやっぱり辛い。

「アンタも来れば? ついでに仲良くなっとけばいいじゃない」

「私、子供は大嫌いなの」

汗にまみれて子供と戯れるなんて冗談じゃないわと、姫華は顔をしかめた。

じゃあ、アンタは何をするんだよ──。

(こんなことだろうと思ったわ)

ヒカリはパンにパクついた。

先が思いやられる。

疲れだけが溜まった。



その頃。胡桃沢邸では、ちょうど昼食の膳が下げられているところであった。

「旦那様。何かご心配事でも……?」

あるじの食が進まないことを気にかけた橋倉が、遠慮がちに申し出る。

「うむ……」

春平は卓に肘をつくと、組んだ手を額に当てた。

「健康診断の書類を見直したのだが、どうも結果が思わしくないようなのじゃ」

「何と。しかし、若先生は」

「あのときはヒカリが傍にいた。気を遣ってくださったのかもしれん」

「すぐにでも問い合わせましょう」

「のう、橋倉」

「は」

「上手くいかんものじゃのう。いつまでも、ヒカリを見守るつもりでおったが」

「旦那様……」

「ハハ。そのうち、直接クリニックへ出向くとしよう」

春平は努めて明るい声を上げた。

眉間の悩ましげなシワは消え、いつもの柔和な彼がそこにいる。

「食後の茶をいただこうかな」

「かしこまりました」

そのように悠長な──。と言いそうになるところを、橋倉はぐっと堪えた。

主にも、気持ちの整理の付け方というものがあろう。

逸る気持ちを抑えながら茶筒を取り出す。

「よぉ。ここにいたか、ジジイども」

出し抜けに声をかけられ、驚いた橋倉は茶葉をぶちまけた。

「気配を消しながら現れるな! この馬鹿者が!」

「泥棒。貴様、ヒカリの護衛はどうした?」

高級茶葉の香りが漂う中、春平が立ち上がる。

ヒカリの前から姿を消したカゲは、何と屋敷に戻っていたのであった。

「気が乗らねー。鈴木さんがいりゃ問題ねえだろ」

カゲは、春平の斜向はすむかいにどっかと腰を下ろした。

「訊きたいことがある」

「何じゃ」

「ガキの話だ」

春平が座り直すと、カゲは橋倉の方に首を巡らせる。

「てめぇ、いつだか“若先生なら心配ない”ようなことぬかしてたが、それは奴が既婚者だからか?」

橋倉が、茶葉を片付ける手を止めた。

泥棒の忠告と、じいちゃんの乱心

「それもある」

橋倉が答えると、カゲは呆れたようにため息をついた。

「まったく大丈夫じゃねえみてーだぞ」

「……そうなのか」

「いいのかよ」

「泥棒風情には何も見えておらんようだの」

春平がフォフォッと笑った。

橋倉が後を引き継ぐ。

「黙って見ておれ。いずれ分かる」

「いや、分かんねえって!」

カゲは、イラついた様子で立ち上がった。

「あいつの世界は、てめーらが思ってる以上に狭い。短絡的で幼な過ぎんだよ」

春平は眉をしかめ、彼の顔をギラリと見上げる。

「あのガキ、今が永遠に続くと思ってやがる。けど、どうしたってジジイどもは先に逝く。みんながずっと同じ場所いるなんて有り得ねえんだ」

俺だってな。
その一言を、カゲは飲み込んだ。

「本当に大事なら現実を教えてやれ。世の中、十八で成人だぞ」

「……かん」

静かな食堂に、誰のものとも分からない呟きが落とされる。

「逝かん!」

春平の声だった。

彼は苦しげに続けた。

「ワシは逝かん。ヒカリと約束したんじゃ」

「ふざけたこと言ってんなよ、ジジイ」

「やめんか、泥棒」

見かねた橋倉が制止に入る。

「話がズレておるだろう。お嬢様と若先生のことなら心配ない」

「ズレてねえ! ずっと夢見がちな世界に閉じ込めてるから暴走するんだ」

「夢見がちで何が悪い?」

橋倉が拳を震わせた。

「貴様は知らんだろう。あの日、この屋敷に訪れた絶望を。お嬢様の悲しみを」

食堂は、それきり沈黙した。

たっぷり二分は経った頃、春平がポツリと言った。

「では泥棒。貴様にくれてやる」

カゲは、ポカンと口を開けた。

「今なんつった?」

「旦那様っ!」

「ヒカリをくれてやると言っとるのだ」

橋倉の制止を遮って、春平は続けた。

「本当にワシが死んだらな。孫は冥土に連れて行けんし」

「ほーぉ」

この俺が、あのガキと。
新しい視点だな。

カゲは、考えるように顎をさすった。

「それはその、この家の財産も一緒にってことか?」

「ふん。金は冥土に持って行けんからの」

「ほほう! そりゃそうだ!」

カゲが身を乗り出すと、橋倉が割って入ってくる。

「旦那様、しっかりなさいませ! 貴様はテーブルに乗るな!」

「……だってぇ」

橋倉が必死で宥めるも、グスンと鼻を啜る春平である。

孫のことになると“財界の鉄人”も形無しだ。

だからって、よりによって何で泥棒なんかにお嬢様を託そうということになるのか。ヤケクソが過ぎる。泥棒はテーブルの上であぐらかいてるし。

橋倉は頭を抱えたくなった。

「おい、貴様も真に受けるなよ。旦那様は今、正気ではないのだ。テーブルから降りろ」

しかし。

(何で今まで気づかなかったんだろうな。これで全財産ゲットじゃねえか! 相手が青臭いガキってところがキツいけどなー)

真に受けてた。

(でも面倒な護衛の仕事からは解放されるし。どーせ紙切れ一枚のことだしな!)

結婚は紙切れ一枚提出したかどうか。

例のドラマで、不倫男の同僚(チャラい)が言ってたやつである。

彼もしっかりドラマの影響を受けていた。

「で、正気じゃねえとはどういうこった?」

突然の質問。
橋倉は内心ヒヤリとした。

「泥棒には関係ない! テーブルから降りろ」

この男は、とぼけているようで妙に鋭い時がある。

泥棒だからなのか。

「ジジイもそろそろ身体にガタが来た。ってところかな」

「まだ分からん。テーブルから降りろ」

橋倉は、苦虫を噛み潰したような顔で答えた。

そして最後に付け加える。

「他言無用だぞ」

“財界の鉄人”の健康不安説。

そんなものが巷に出回ったら、社会は大混乱だ。

「でも、健康診断は問題ないって話じゃなかったのか?」

と、カゲ。

「うむ、しかし」

「ん? 待て。なぜ泥棒がそのことを知っている?」

橋倉が不審そうに言った。

「あ」

「あ、とは何だ」

あの時、カゲは応接室の飾り棚に張り付いて話を聞いていたのだった。

護衛ではなく、“本職”の方で。

「いやぁ、俺は何でも知ってるのさ」

「この馬鹿者が!」

理由を察した橋倉が雷を落とす。

「テーブルから降りろ! っていうかね!!」

「へいへい」

カゲは滑るように床に着地した。

「さっさと病院行けよー」

食堂を出る直前、そう言い残していった。

「……それもそうよな。早めにクリニック行くわ、ワシ」

泥棒に言われてその気になる春平である。

複雑だが、ひとまずは胸を撫で下ろす橋倉であった。

再び食堂のドアが開く。

「派手にやってたね」

「おお、冬子。大学院の方はいいのか」

末娘の姿を認めると、春平は目尻を下げた。

「今日は午前中でキリがついたの」

冬子が席につくと、橋倉は慌ててテーブルを磨き始める。

その位置で、さっきまで泥棒があぐらをかいていたのだ。

「私もお茶、いただこうかな」

「かしこまりました」

橋倉は改めて準備にかかる。

「ほーんと、面白い護衛くん」

冬子が愉快そうに話し始めた。

「ねえ、パパ。あの護衛くんとヒカリちゃんの取り合わせ。私、アリだと思うんだよね」

「何じゃと」

「冬子様までそのようなお戯れを」

玉露が注がれると、やがてふくよかな香りが辺りに立ちのぼる。

「ヒカリちゃんは真っ直ぐ過ぎるから、人より傷つく。苦しむと思う、これからも」

冬子は、湯呑みを両手で包み込んだ。

 「……お兄ちゃんにそっくり」


なお、泥棒は真に受けたまま

春平はゆっくりと玉露を口に含み、遠くを偲ぶように虚空を見つめた。

「本当に、歳を追うごとに……」

橋倉も感慨深げに言葉を切る。

食堂に再び静けさが訪れた。

冬子が言う「お兄ちゃん」とは胡桃沢家の長男であり、ヒカリの亡き父だ。

「でもね。これは私の直感なんだけど、彼がいればヒカリちゃんは大丈夫な気がするの」

「フォ。そうか」

末娘にも甘い春平は、彼女の話を真っ向から否定することはない。

「でも、すごいヘンな奴じゃぞ」

先ほどよりは冷静に見える主を横目に、橋倉は少し安堵した。

さっきの発言は、きっと乱心してしまっただけなのだ。

もう忘れているだろう。

そうでなければ困る。何しろ、奴は泥棒なのだから。

「冬子様。今日はお夕飯もご一緒に?」

橋倉は、気を取り直して執事の顔に戻った。

「うん」

「それがいい。ゆっくりしていきなさい。ヒカリも喜ぶぞ」



「棚ボタ万歳!」

カゲは、真に受けたままだった。

ウキウキと自室へ向かう。

夜ごと屋敷内を物色せずとも、ジジイが死ねば莫大な遺産が転がり込んでくる。

「天下の胡桃沢だ。すげー額になるだろうな」

ただ待っていればいいのだ。護衛の仕事もそれまでの我慢。このカビ臭い部屋とも、もうすぐおさらばである。

カゲは、埃っぽいソファにゴロリと横になった。

(あれ?)

しかし、すぐに違和感を覚える。

何かが足りないような──。

「うおっ!? 全然トイレに行きたくねえぞ!」

彼は飛び起きた。

「そうか……。そういうことか!」

尿意が来ない。即ち危険が遠いということ。

つまり、始めからこうしておけば良かったのだ。

彼はそう解釈した。

ヒカリと形だけの結婚をして、胡桃沢の財産を相続する。

そうすれば尿意に悩まされることはない。

もう、治ったも同然なのだと──!


ヒカリとカゲの、すれ違い

ヒカリとカゲは、公園に向かっていた。

北白河クリニックにほど近い、こんもり緑を背負った公園だ。

計画の第一段階。

美亜ちゃんと遊んで、何でもいいから情報を集めるのだ。

「美亜ちゃんに、また遊ぼって誘われてたの」

と言ったら、カゲは「おお、そうか」とついて来た。

(おかしい。おかしいわ)

いつもなら、もっとイヤそうにするはず。

今日だけじゃない。

最近、カゲが妙に優しいのだ。よそよそしいというか。

ヒカリは、やけに爽やかな横顔を眺めた。

(う、気持ち悪っ)

首元に怖気おぞけが走って顔を背ける。

おかしなことは、まだあった。

以前のカゲは、奇声を発して固まったり、落ち着きなくステップを踏んだりしていたのに。

いや、そちらの方がおかしいのか?

ヒカリは混乱してきた。

(やっぱり、私のせいかしら)

姫華と手を組むような真似をしてしまったから。

泥棒として一匹狼で生きてきた彼には、そんな行動が許せないのではないか。

文句を言ってこないのは、軽蔑されているからかもしれない。

(でも仕方ないじゃない。誠先生が好きなんだもの……!)



(遺産のためだ。ちっとは優しくしといてやらねえとな)

カゲは、まだあの話を真に受けていた。

春平からOKが出ているとはいえ、本人への心証が悪ければ嫌がられてしまう。

ヒカリが自分の横顔を見ている。そして、すぐに顔を背けた。

(フッフ。意識してやがる。ようやく俺様の魅力に気づいたか)

ちょっと優しくしてやっただけでこれだ。

やはりまだ子供だな、と思う。

今はキザな医者に夢中のようだが、それも時間の問題だろう。

今日、外へ出てきたのは護衛のためだけでなく、あることを確かめたかったからだ。

(よし……!)

以前は危険地帯だった公園が近づいても尿意が来ない。

やはり、“形だけの結婚”という方向性に間違いはないのだ。

彼は、足取りも軽く公園に入っていった。


(ステップ踏んでる……)

どうなっているんだ?

ヒカリは首を捻りながらカゲの後に続いた。


「あ! お姉ちゃん!」

「今日、遊べるの?」

「あそぼー」

美亜ちゃんだけでなく、何人かの子がヒカリたちに気づいてくれた。

誰かが言った。

「またドロケイしようぜ!」

カゲは走った。

彼は泥棒だ。何度も逮捕の危機を掻い潜ってきた。しかし。

「よっしゃ! にーちゃん捕まえた!」

「ぬーっ! チキショー!」

子供相手に本気で悔しがる泥棒である。

尿意がないと動きにキレが出ない。

(バカね、子供相手に)

とヒカリは思った。

こうして見るといつものカゲだ。

ちょっとだけ胸がチクンとする。

彼がよそよそしいのは、自分に対してだけ──。

小さな手が、トンと自分の腰に触れた。

「ああ、美亜ちゃんに捕まっちゃったー」

ぼんやりしていたら捕まってしまった。

それにしても。

(こう走りっぱなしじゃ、情報収集どころじゃないわね)

ヒカリは、額に貼りついた前髪をかき上げた。

正直、美亜ちゃんに会うのは複雑だった。

でも不思議なもので、こうして遊んでいると爽快な気分になってくる。

こんな気持ちは久しぶりだ。

このところずっと、心に重りがぶら下がっているようだったから。

と、ヒカリはあることに気がついて、美亜ちゃんの傍にしゃがんだ。

「美亜ちゃん、それステキね」

美亜ちゃんは、小さなウエストポーチのようなものを付けている。

小学生用の、いわゆる移動ポケットというやつだ。

紺色のリボンが控えめに飾られたそれは、とってもオシャレだが市販品のようには見えなかった。

「これ? ママが作ってくれたの」

「手作りなの? すごいのね、美亜ちゃんのママ」

言ってから胸がズキッとした。

傷口のじゅくじゅくを、もう一度引っ掻いてしまったみたいに。

「これだけじゃないよ。ワンピースとか、かわいいのいっぱい作ってくれるんだ」

「へえ……」

ヒカリは、眩しい思いで手作りのポケットを眺めた。

美亜ちゃんは得意げに鼻をこすっている。

急に声がした。

「美亜ちゃん。そろそろピアノのレッスンの時間よ」


箱入り令嬢、なんとか仕事する

ヒカリは驚いて立ち上がった。

「あ……」

パリッとしたストライプのロングブラウスに、レギンスを合わせた女性が立っている。

ゆるく髪をまとめた、清潔感のあるひと。

この女性ひとが、美亜ちゃんのママ──。

「もうそんな時間? もっとお姉ちゃんと遊びたいよ」

美亜ちゃんが眉をハの字に寄せる。

「あ、もしかしてヒカリさん?」

女性が目を見開いた。

「は、はい」

「娘と主人からよく聞いてます。いつもお世話になってありがとう」

ヒカリがぎこちなく応じると、女性は顔をほころばせた。

──“主人”。

この人は美亜ちゃんのママで、誠先生の奥さんなのだ。

余裕のある、柔らかな笑顔。

自分が急に子供に思えた。

「いえ、こちらこそ。あの。美亜ちゃんのポケット、とっても素敵ですね。ママの手作りって」

できる限り大人っぽく振る舞う。

目の前の女性ひとに、子供だと思われたくなかった。

ヒカリが褒めると、彼女は頬をやや赤らめた。

「独学だから自信はないのだけど。でも、ありがとう」

「独学で? すごいわ。私、お裁縫は苦手で……そうだ!」

ヒカリが大きな声を出したので、彼女は目を丸くする。

「あッ、不躾ですみません。良かったらお裁縫、教えていただけませんか」

こんな大それたことを思いついた理由が分からなかった。

しかも、実際に口に出してしまうなんて。

彼女は目をパチクリさせていたが、やがて大きく頷いた。

「ええ。私で良かったらいつでも」

「わあ、ありがとうございます! 不躾続きなんですけど、お友達を一人呼んでもいいでしょうか……?」

「もちろん。賑やかなのは大好きなの」

予想に反して、彼女はウキウキした様子だ。

「そうね。最初は巾着袋でも作ってみましょうか」


(バカな奴だな、必死で笑いやがって)

数歩離れたところで、カゲは二人の会話を聞いていた。

彼には、ヒカリが作り笑いしているように見えるのだ。

何故わざわざ苦しい道を選ぶのか。

(ま、遺産のためだ。口うるさくすんのは止めとくか)


「道具や布は家に揃ってるから。何なら100均にもかわいい布が、あ」

女性が言葉を切る。

「お嬢様に100均だなんて。私ったら」

彼女は苦笑いで頬を覆った。

ヒカリは、彼女のことを可愛い人だなと思った。

“100均”の意味は分からなかったけれど。

日時を打ち合わせて別れた。

美亜ちゃんは、「お姉ちゃんが遊び来る」と嬉しそうだ。

「さ、帰ろっか」

ため息と共に言った。

めちゃくちゃ疲れた。

彼女がヒカリのお願いを断るような、嫌そうな顔をする人だったら。

もっと軽い気持ちでいられたんだろうか。

「……どーして何にも言ってくれないのよ」

前を歩く背中に呟く。

予想外に声が大きくなったのか、カゲが振り向いた。

「おん? 何か言ったか?」

「何でもない」

俯いて長い影を見つめる。

(そっか。私、カゲに軽蔑されてるんだっけ)

でも、今さら引けない。

姫華と手を組むって、自分で決めたのだから。


「次の日曜日、十三時にクリニック近くの公園で待ち合わせよ」

蓮乃宮女学院高等部。

奥さんに会った。約束を取りつけたと話したら、姫華は一瞬、手負いの獣のような顔をした。

「何よ、情報が欲しいんでしょう? だったら家に乗り込めば」

「分かってるわよ」

ヒカリを遮った姫華は、既にいつもの顔に戻っている。

「あなたにしては早い仕事だと思って感心してあげてたの」

姫華が横をすり抜けていった。

心許ない隣を眺める。

この頃のカゲは、護衛についてはくれるものの一定の距離があった。

護衛とはそういうもので、鈴木さんもそんな感じだ。

でもカゲは、いつもうるさいくらい近くにいてくれたのに。


「そこの護衛。生徒用の席に座らないで!」

教師から鋭い声が飛ぶ。

この学院は、護衛がだらしないと怒られるのである!

ここに通うお嬢様たちの座席は、特注の超高級ソファだ。

カゲはここで寛ぎながら、ヒカリたちの話をしっかり聞いていたのであった。

(やべーことになってる……)

しかし。

カゲは首を傾げた。

(尿意が来ねえんだよな。本当に大丈夫なのかな?)

ソファの上にあぐらをかく。

「聞こえていないのですか!? 生徒用の席に座らない!」

教師は相変わらずヒステリックな声を上げている。

(ジジイどもも黙って見とけとか言うし……どうなってんだ?)

尿意に悩まされないことに、解放感はあった。

しかし、元々あったものがないと変な気分になってくる。

「泥棒さん、降りて!」

鈴木さんが呼びに来た。

「泥っ? 何を言っているのです!?」

「あ、申し訳ありません」

とばっちりを食う鈴木さんである。

「アータたちは胡桃沢さんの……? 名門の家の護衛がそんなでどうするのです!? 大体アータたちはいつもアータラコータラ」

教師からの説教は続く。


事は、動き始めてしまった。

尿意が来ないまま。

それでも時は経ち、週末がやってくるのであった──。


箱入り令嬢たち、城へ突撃するも

厚い雲が湿気を閉じ込める。

重苦しい6月の日曜日。

ヒカリと姫華は、滑り台の脇に無言で立ち尽くしていた。

互いの護衛は一人ずつ。

できうる限りのオシャレをしてきた。

TPOを考えて、やりすぎないように計算して。

それでも。

北白河の妻が公園に現れたとき、姫華は打ちのめされたような顔をした。

北白河家は、公園のすぐ傍だった。

白壁の、一言で言えば手間をかけた家。

そこかしこに植物や小物がさり気なく並べられている。

それでも嫌味がなくて、適度にきれいで開放的で。

この家を切り盛りする者のセンスが光っている。

通されたリビングからは芝生と小さな自転車が見えて。

花壇には、名前の分からない花々が咲き乱れている。

「二人からです」と、ゼリーの詰め合わせを差し出した。

彼女は恐縮して礼を述べると、「少し待っててね」と下がっていく。

「おかまいなく」

と答えたものの、緊張で喉はカラカラだ。

姫華を気遣う余裕はない。

サイドボードの写真立てが目に入って目を逸らした。

きっと家族写真。

真正面から見て平静でいられる自信なんかない。

ヒカリは、机上に飾られたアジサイをひたすら眺めた。

「いらっしゃい」

「お姉ちゃん、あそぼー」

美亜ちゃんと北白河が現れた。

ヒカリがよく知る誠先生じゃないみたいだった。

「……誠先生」 

姫華が蚊の鳴くような声を出す。

「お邪魔しています。美亜ちゃん、こんにちは」

我ながら、どうしてこんな大人の対応ができるのか。

何度か味わった感覚だ。

泣きそうな自分が、そつなく笑う自分を見ているような。


「すみませんね、奥さん」

カゲと冷泉家の護衛は、立ったままグラスを受け取った。

「あの、座られては?」

「いえ、我々はここで」

戸惑い気味の彼女に、冷泉の護衛が答える。

カゲは、喉を鳴らして麦茶を飲み干した。

尿意を気にせず、喉が渇いた時に思い切り飲む。

一度やってみたかったのだ。

幸せを噛み締めるカゲを、冷泉の護衛がすごく変な目で見ていた。


「美亜。お姉ちゃんたちと遊ぶのは後って約束だろう?」

ゴネる美亜ちゃんを、北白河が宥める。

「ごめんなさいね、騒がしくって」

彼女は、ヒカリたちの前にもグラスを置いた。

「一段落したら早速始めましょ」

そう言って、美亜ちゃんの方に顔を向ける。

「美亜ちゃんには大切なお仕事をお願いしてるものね。パパを助けてあげてよ?」

「そうだった。頼んだぞ、美亜」

「お仕事? 何かしら?」

圧倒されているらしい姫華に比して、彼らと積極的にコミュニケーションを取るのはヒカリの方だった。

会ったのが初めてではないのもある。

ただ、やっぱり泣きそうな自分が、笑顔を振り撒く自分を見ているような感覚は抜けない。

「秘密ぅ。後で教えてあげる」

何だろう、気になるな。

美亜ちゃんに向かってそう言おうとしたとき、家族三人がアハハと笑い合った。

(あっ──)

何気ないその場面が、ヒカリには一枚の絵画のように見えた。

誠先生が、いつもの先生に見えない理由が分かった。

ここから先は自分が踏み込めない世界だ。


「姫華。私、降りるわ」


奥さんが道具を取りに行っている少しの間に、手短に伝えた。

美亜ちゃんと北白河が、お揃いのエプロンでオープンキッチンに立つのを眺めながら。

「はっ?」

「私たちは普通にお裁縫して、美亜ちゃんと遊んで帰るの」

「今さら何を……!」

ヒカリを責める姫華の目に、いつもの鋭さはない。

「無理よ。アンタも、本当は止めてほしかったんじゃないの?」

姫華が何も言い返さず俯くのを見て、ヒカリはホッと息をついた。

そう。これで良かったのだ。


少し離れた場所で、カゲが口角を上げた。


二人は、当初の目的を忘れて裁縫に没頭した。

キッチンから甘い香りが漂ってきて、美亜ちゃんの“秘密の仕事”の内容が何となく分かってくる。

出来上がったのはマドレーヌだった。

奥さんが紅茶を淹れてくれた。

姫華は、子供嫌いなりに頑張って美亜ちゃんとコミュニケーションを取っている。

「意外とカンタンなのよ。ほら、こうして……」

ヘアメイクを教えてあげたりして。

「美亜も、大きくなったらお姉ちゃんみたいにクルクルの髪にしようかな」

なんて言われた時には、吹っ切れたように笑っていた。

ヒカリも、最初より楽な気分で過ごした。

泣きそうな自分は相変わらず存在するけど、その顔は少しホッとしているようだ。


「じゃあね」

遊び疲れて眠そうな美亜ちゃんに手を振った。

激動の日曜日が終わる──。


「また学校でね」

普段なら絶対に掛けないような言葉を掛けたのは、姫華が濡れそぼった猫のように見えたからだった。

「何よ、気持ち悪い」

眉を寄せる姫華の顔には、疲労が色濃く滲んでいる。

「フン。今日だけよ」

ヒカリが言い返すと、彼女は苦笑して迎えの車に乗り込んだ。


「ああ。いま終わったところだ」

カゲが胡桃沢家の警護班と連絡を取っている。

『では車を回す』

彼はヒカリを見遣ると、

「……いや、いい」

『しかし雨が』

警護班の話を聞かずにそのまま通話を切った。


「さて。帰るか」


◇第三話④へ続く◇


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