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"ポスト集大成"とでも言うべきなにかーー『クライ・マッチョ』評

アメリカ、テキサス。ロデオ界のスターだったマイクは落馬事故以来、数々の試練を乗り越えながら、孤独な独り暮らしをおくっていた。そんなある日、元雇い主から、別れた妻に引き取られている十代の息子ラフォをメキシコから連れ戻すという依頼を受ける。犯罪スレスレの誘拐の仕事。それでも、元雇い主に恩義があるマイクは引き受けた。男遊びに夢中な母に愛想をつかし、闘鶏用のニワトリとともにストリートで生きていたラフォはマイクとともに米国境への旅を始める。そんな彼らに迫るメキシコ警察や、ラフォの母が放った追手。先に進むべきか、留まるべきか?少年とともに、今マイクは人生の岐路に立たされる――。

集大成に次ぐ集大成みたいなことを繰り返してるイーストウッド御大の最新作で、しかもタイトルが『クライ・マッチョ』でしょう?となると、社会的にマッチョが許されない時代にマッチョイズムの罪と向き合う後悔と反省の物語、みたいなものを想像するわけじゃないですか。でもねこの映画、鶏が大活躍するんですよ。少年が飼ってる軍鶏で名前がマッチョ。で、そのマッチョが鳴くわけ。コケコッコーって。だから『クライ・マッチョ』。

鶏の鳴き声に驚くイーストウッド。


本作が抜きんでてるのは語り口の異様な軽妙さ。たまに音楽なんかの評論で「いい意味で肩の力が抜けた~」みたいな文章を見かけると思うんだけど、本作は肩の力が抜けすぎてもはや物語を語ってやろうという意識さえ希薄なのではと思わせてくる。ロードムービーなのに一つの町に留まってる時間の方が長いし、あらすじにあるメキシコ警察や少年の母が放つ追手も実際はほとんどサスペンスとして機能しない。あるのは「昔は俺もワルだった」とのたまいながら少年に昔話をしたり乗馬を教えたりする好々爺の穏やかな余生だけで、そこには当然『許されざる者』のような英雄譚の解体もなければ、『グラン・トリノ』のような「古き良きアメリカ」の継承もない。

これってもう何らかの極致だと思うんですよ。齢90のイーストウッドにしかたどりつけない極致。のちの世代に何を残すかとか自分の人生の総括みたいなものを通り越して、その先にある余生の話をしてるし、それが画面の締まりのなさみたいな演出面にまで表れてる。

道中出会った女性と惹かれ合うイーストウッド。幸せそう。


本作は監督デビュー50年目にして監督作40作目にあたる作品らしい。もう何年も自身がかつて演じてきたヒーローや描いてきたマッチョイズムと対峙する作品を撮り続けてきたわけだけど、本作の主人公はそれらをとっくの昔に喪失してる。この「喪失」というのもイーストウッド作品における重要なモチーフとされることが多くて、『許されざる者』なら主人公の亡き妻クローディア、『インビクタス』ならマンデラ自身の半生、『ミスティック・リバー』なら主人公(?)であるデイブの心が、既に決定的に失われてしまったものとして用いられてる。

加えて少年のほうも両親の実質的な不在が心に影を落としてる人物で、欠けたものを埋め合わせるためにマッチョとして振る舞わざるを得なかったという境遇を伺わせる。つまり喪失から学びを得た主人公と、未だマッチョが憧れの対象にある少年という形で対比がなされる。にもかかわらず、本作でイーストウッド演じる主人公は少年を直接手助けできる立場にないし、何かを託すということさえできないというのが凄かった。複雑な状況に立たされてきた少年に対して主人公ができることといえば昔話をしたり乗馬を教えたりすることだけで、少年の人生に介入できるだけの力がかつてマッチョだっただけの年寄りには残されていない。ラストは主人公がメキシコの町に移住、つまりコミュニティへの回帰を匂わせて幕を閉じる。不謹慎なことを言うとこれ以上遺作にふさわしい作品もないと思ってしまう。それくらいラディカルで超越的な映画だった。


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