Seed on Feeld-1
STORY-1「楽園」
第一章<誰か教えてください。好意なのか利用されているのか?僕はどこへ行けば良いのか?教えてください。>
『「すまないがもう、ここから出ていってくれ、おられちゃ困るんだ」
マスターに言われた言葉が頭にこびりついて離れない。痩せほそった足を引きずりながらカラムは繁華街を当てもなく彷徨うしかなかった。
公園のベンチに腰をかけて夜空を照らす街の喧騒を聞きながら祖国を飛び出した頃のことを思い出していた。
4人兄弟の長男として育った。自分が家族を支えなくてはならなかった。兄弟と言っても皆母親が違う。土で固められた穴蔵のような家には年老いた父と妻が三人、その一人が母のアミラだった。優しい母だったが三人目の妻だった彼女は家族全員の服の洗濯や家全体の掃除をしなくてはならなかった。
父のラザはほとんど働かず1日のほとんどを家で寝ていた。
カラムはこの国のことが本当に嫌いだった。バングラデッシュではどんなに努力をしても生まれた家で将来が決まってしまう。食べ物も水も不衛生で、アメーバー赤痢は当たり前で半数を超える人が肝炎を患っていた。
カースト制が根付いていて、裕福な者の多くが縫製工場で働いていた。母と一つ下の妹もインド綿で作る布バッグの縫製工場で働いていた。
学校に通うほどのお金はなかったが、鋳物工場で働きながら母が仕事から帰れない時は家で食事の用意をした。小麦粉を練ったものを平らに伸ばし、土のタンドリーで焼いたチャパティに山羊から取ったギイという油をかけたものが主食で、母と妹の給料日には、そこに豆を練って油で揚げたピアジをつける。
寝ている父のところへ、時々ローブを着た裕福そうな来客があった。旧知の中のようだった。ある日、母が働きに出ていて、カラムはその客人に簡単な料理を出したことがあった。
その日父はカラムにお金を渡して普段は高価で食べることのない羊の肉を買ってきてマサラカリーを作れと言った。カラムは市場で羊肉を買って、ギイでマサラと一緒に炒めてコトコトと煮込んだ。
客が来たときにそれを出すように父に言われた。食事が終わってその客はまた父の元へゆき、マサラチャイを飲みながらしばらく話をしていたが、帰る間際にカラムのところへきて、肩をポンと叩くと帰っていった。
翌日、父に呼ばれて行くと「ダッカの役所まで行け」と言われた。役所の受付で名前を言うと奥に通されて部屋に入ると昨日父と話していた男が座っていた。
「君は今日からうちの見習いコックとして働け」と言われた。
料理は母から教わった小魚のカレーやレンズ豆のダルスープなどの庶民的なものしか知らない。でも作るのは好きだった。
見習いの仕事は庭掃除から、食器洗い、来客のたびにお茶を煮出し、ハラールに則って鶏と羊の肉を切り分けて冷蔵庫に入れておく。イスラム教徒の多いバングラデッシュではラマダンの後は山羊のミルクから作った揚げ団子を甘いシロップで食べたり卵を油で揚げてマサラで煮込んだり豪華な食事を食べ続ける。
来客の宗教によって食べられるもの、食べられないものを把握して食事を用意しなくてはならない。
自宅には豪華な冷蔵庫もキッチンもなかったカラムにとっては、その厨房は天国のような場所に思えた。朝早くから何十個もの玉ねぎを剥いて、刻んで、昼頃までひたすらギイで炒め続けなくてはならなかったし、その日の煮込みが終わるとスパイスを挽いておかなくてはならなかった。
そのうち、カラムの作る料理は評判を呼び、厨房のスタッフの中でも注目されるようになっていった。ある日主人から呼び出された。
「もうここで働かなくても良い。明日外務次官のところへ行ってくれ」とそれだけ申し渡された。
翌日、外務次官の公邸へ出向いて会いに行くと難しそうな書面を渡されてサインするように言われた。
「お前は3ヶ月後に大使について日本へ行く気はないか?大使館で料理人を探している」
日本なんて聞いたこともない国の名前だった。いや?日本人は見たことがある。もちろんベンガル語なんて話せはしない。変に途切れ途切れな発音の英語を話していたように思う。ガイドに連れられて歩いていた男一人と女が一人。男はベンガル人のように日焼けしていたが、女は白人のように白かった。目が小さくて眉毛が薄い。変な顔だな、と思って見ていた。チャイニーズと見分けがつかない。アメリカ人のような服装。靴下とスニーカーを履いている。あまり手振りしないけど頭を上下してばかりいる。そんな印象だった。
それでもカラムはその話に乗り気だった。とにかくバングラデッシュから出たかったからだ。
3ヶ月後、カラムは飛行機を乗り継いで羽田空港に到着した。大使館までは大使館で働くシャデクが引率してくれた。カラムだけではなく何名かのバングラデッシュ人が同行していた。
日本は綺麗な国だった。単に風景が美しいというのではなく道にゴミが何一つ落ちてはいなかった。背の高さはバングラデッシュ人と変わらない。皆がアメリカ人のような格好をしていたけれど、服の色は地味だった。
とても背の高いビルが立ち並ぶ中に一風変わった蜘蛛の巣が張ったような窓のついた建物があった。その屋根に緑の地に日の丸のバングラデッシュの国旗が掲げられていた。シャデクはカラムたちを建物の奥へと導いた。
自国では見たことのないようなガラス張りの建物は、いつも見られていて恥ずかしくないのかな?といらぬ心配をさせた。ビルの中で一緒に来た他のメンバーとはバラバラになった。
その外国のホテルのような厨房に入って夢を見ているようだった。残念ながらそこに住むのではないのがわかって落胆した。
日本の文化住宅はコンクリートと木で出来ていた。狭い部屋に通されて、そこで母国から来た3人で一緒に住むように言われた。部屋の床は土ではなくて藁のような枯れ草を編んで四角い板に貼り付けた「たたみ」というもので出来ていた。驚いたのは部屋に入るときに靴を脱がなくてはならないことだった。
でも部屋に入ってみると、この「たたみ」は案外足の裏に心地よく感じた。寝るときは薄い生地にふわふわしたものを詰めた大きなクッションの「ふとん」というものを敷いて、その上で寝る。
でもふとんに慣れないカラムたちは畳の上に裸で寝そべった。でもしばらくすると秋に入っていた日本の気候は自分たちには寒いと感じた。そのうちに皆、布団を体に巻きつけて寝るようになった。
カラムたちが翌日大使館に行くと、まずは日本語を勉強しなさいとユネスコの日本語学校を紹介してもらった。そこには世界中からいろんな人々が通っていたけれど、ほとんどの人が日本で働くために日本語を学習していた。
カラムたちはベンガル語を話せる先生が少なかったので、カタコトの英語とヒンディー語で先生たちとやりとりをしていた。2ヶ月くらいして少し雰囲気に慣れてくるとそこにはいろんな日本人が出入りしていることがわかった。
若い日本人の男女が頻繁に出入りしていた。彼らはボランティアで日本語の講師をしながら、様々な国に留学したり青年海外協力隊に所属してボランティア活動をしているのだと後でわかった。
バングラデッシュは貧しい国で、青年海外協力隊の人たちには会った事がある。井戸を掘って綺麗な水を手に入れたり、革を加工して鞄や商品にしたり、そういう技術や機械の導入をサポートしてくれていた。
大使館に勤め始めて2年が経過した頃、カラムは大使館を出て給料をもらえるところで働きたいと考え始めた。
でも大使館で働かないのなら、勤め先で就労ビザをとってもらわないといけない。ユネスコに出入りしているバングラデッシュ人でとても世話になっている人がいた。彼は大阪でインドカレー店を経営していた。とても日本語が流暢で大阪に住んでもう6年になるという。彼はカラムにちょうど一人国に帰るスタッフがいるから代わりに自分の店で勤めてみないかと誘ってくれた。
その店は大阪という大きな街の真ん中にあった。大阪には街の中を高速道路という名の道が橋の上を通っていて、その店はその橋の下に飲食店が並んでいてイタリアのパスタを作る店、日本の田舎風料理を作る店に並んで建っていた。
そんなに大きな店じゃなく、バングラデッシュにある土間にテーブルが乱雑に置いてある店とは違う。表玄関から入るとカウンターがあって10人ほどが座れる。カウンターの後ろに二人用の小さなテーブルが二つ。全部埋まっても14人で満席だった。
ランチタイムに店の外で見ていると行列ができていて、ひっきりなしに客が出入りしていた。何より驚いたのは、客が来ると店主が「まいど、いらっしゃい」「おおきに、また来てや」と大阪独特の訛りのある日本語を流暢に喋っていたことだった。
東京で他のバングラデッシュ人が務める店に行ったことがあったが、バングラデッシュ人なのに「アッサラーム アライクム」とは言わず「ナマステ」と挨拶しているのに変な感じがした。
その店の店主は日本人の奥さんがいて、お店の経理をされていた。店主と話をして、料理が出来るかどうか尋ねられたが、一通りの経験があったのですぐに採用が決まった。就労ビザも問題なく申請できそうだった。
ただし、一つだけ条件があった。それなりの給料は出そうだったが、そのうちの幾らかを使ってYMCAに通って日本語を勉強しろと言われた。日本で上手くやって行くなら日本語をマスターしなくてはならないと店主は言った。カラムの日本語はまだまだ未熟で聞き取りにくかった。
こうしてカラムはその店で働きながら日本語の勉強を続けた。
YMCAにはユネスコ以上に多くの日本人が出入りしていた。ユネスコはいろんな国際機関やボランティア活動をしている日本人が多かったが、YMCAには一般の会社員や海外に興味のある学生なんかが出入りしていた。
そんな中で、以前バングラデッシュに行ったことがあるという女の子と知り合いになった。彼女は片言のベンガル語を話したので、お互いに言葉を教え合った。
その子は美智子と言った。彼女は慣れないカラムの日本での生活をサポートするようになった。役所での手続きはもちろん、電気製品の取り扱い、スーパーでの買い物にもついて行って説明した。
もう日本では3年目を迎えて、自分では日本語も上達したように感じたが異国での生活の難しさはついてまわる。最近になってようやく醤油の味に慣れ始めた。ベンガルの料理はスパイスを大量に使ってはいるが、塩気はそんなに感じない。
日本はナンプラーに似た醤油を使っているが、どの料理も随分塩気が強い。でもその中で一つだけ気に入った料理があった。それは「イワシの煮付け」といった。イワシやアジのような小魚をバングラデッシュでも良く食べる。「イワシの煮付け」はこの遠い異国で唯一母国を感じさせた。
それでもバングラデッシュに帰ろうと思ったことはない。母国には二人の妻と三人の子供がいる。日本で稼いで母国の家族に仕送りをすることはもちろんだが、盗難が日常茶飯事で不衛生な母国では多くの人が病を患い、多くの子供が栄養失調で死んでしまう。彼の目には日本ほど暮らしやすく美しい国はないと思えた。そして時々入管でひどい扱いを受けるが、自分の周りにいる日本人は誰も親切に思えた。
一度だけ美智子の家に行ったことがある。神戸の坂を上がった丘の上にその豪邸はあった。いつもジーンズにTシャツといったラフな姿しか見なかった彼女が、その日だけはシックなワンピースにヒールを履いていた。化粧をした彼女がこんなに美しかったのだとカラムは思った。
その豪邸の扉を開けて入ってゆく彼女にカラムも続いた。カラムもこの日は新調したスーツを身に纏っていた。美智子はスーツの前ボタンを留めるように言ったがどうしても息苦しくて彼はすぐにボタンを外してしまった。いつも裸足にスニーカーだった彼は靴下と黒い革靴を履いていた。指先と踵が靴擦れを起こしていたが彼女には言わず我慢していた。
玄関を開けると、初老の眼鏡をかけた男性と中年の女性が彼らを迎えた。この日は祝日だったが男性はジャケットを羽織っていた。細身の女性は細身のパンタロンパンツに白いブラウスを着ていた。
日本人の作法どうり玄関で靴を脱いで応接間に通された。応接間にはゴブラン織のタペストリーと本革張りのソファがあった。世界中の高級品を並べるとこんな部屋になるんだろうな、とカラムは思った。
「食事してゆくんでしょ?」
その女性が言った。その口調で彼女が美智子の母親だとわかった。
「わ、わたしはカラムと言います。あのう…」
どんなふうに言えば良いのか分からなかった。日本人は無表情だけれど、その時美智子の母親は無表情な顔に誰かが描いた絵のような微笑みを浮かべていた。
「彼は、カラムさんです。YMCAで知り合ったの。私の家が見たいって言うから連れて来ちゃった」
彼女に『家に行きたい』と言ったことはない。でもその場の雰囲気から『違っている』とは言えなかった。
日本の食卓のテーブルは小さい。大使館では30名は座れる大きなテーブルで皆食事をしていた。
子供の頃はテーブルなんてなくて、床の上に座って大家族で食べた。
バングラデッシュでは一夫多妻なので、兄弟の奥さんとその子供まで入れると大変な人数で、そこにまだ叔父さんやその家族が加わる。女たちはそれぞれ材料を持ち寄って皆で大量に食事を作る。ダルスープは日本の味噌汁みたいなもので、その後で野菜と魚を中心にマサラ料理が並ぶ。
誰が誰の子供なんて区別はないから、女たちが近くに座っている子供の世話を焼く。
父が知り合いを連れてくると、その人が食事が終わるまでは食事が出来ない。
別室で父は話をしながら、自分は何も食べずただ話を聞いている。
客が帰ると父が食事をし、父が食べ終わってから家族の食事が始まる。
だから美智子の家族と一緒に食事をするのはとても変な感じがした。美智子の父に料理を勧められるのも何だか気が引けた。母国では自分よりカーストが上の人間の前で食事をするだけで暴力を受けたり殺されたりすることもあった。
食事が終わって、後片付けをしようと器を流しに運んでいると、後ろからそっと美智子の母親に声をかけられた。
「ねえ?あなたたちお付き合いしているの?」
カラムと美智子は一緒に食事をした程度でまだ付き合っているわけではなかった。
「友達としてお会いしています」
カラムが言うと
「そう、良かった」
母親は一瞬『しまった!』という表情をしたが、すぐに何事もなかったように用意してあったデザートを持ってテーブルに戻っていった。
そうなんだ、この国は見えないだけでやっぱりカースト制度が残っているんだ。とカラムは思った。
大阪に移って半年が過ぎた頃、カラムは知人の日本人男性に連れられて心斎橋筋の裏通りにあるスナックにいた。イスラムであるカラムは酒など飲まない。でもその知人の男性はどうしても合わせたい人がいるというので同行することになった。
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