見出し画像

小説 「理由」 完結編

6. ライター

槙原が去ってから、しばらく経ったある日のこと。俺は会社を出る直前、ポケットの中にあったあのライターに手が触れた。

触れるたびに、どこか温かい感触と、重い空気を感じるんや。

「なんや、このライター…まだしっかりしてるな」

思わず、槙原の声が耳に蘇る。

「ここにおったら、大事なもん、忘れてしまいそうやからな」

その言葉の意味を、俺はずっと考えてた。
忘れることが自分を守る手段になる、って話やったけど、具体的にはどういうことやろか…。

ある日、仕事帰りにふと寄った居酒屋で、昔の同僚の中村と顔を合わせた。

中村は槙原のことを知ってるらしい。

グラスを傾けながら語り出した。

「あいつな、昔から『忘れる』って言うたもんや。何か、辛いことや裏切りを、忘れることで自分を守ってきたんやろうな」

「そっか…」

「でもな、ただ単に記憶を捨てるんやなくて、必要なものだけはしっかり覚えて、痛い記憶だけは、そっと横に追いやる。それがあいつの生き方やったんや」

中村の言葉に、俺はじっとライターを見つめた。

新品以上にツヤがあんねんな。

それは、槙原が「忘れる」ことによって守られた、大切な何かの象徴やのかもしれへん。

次の日、オフィスでふと、休憩室の棚にかすかなメモが貼ってあるのを見つけた。

そこには、槙原が残したと思しき文字があった。

「大事なもんは、覚えておけ。忘れることも、また一つの知恵や。」

その短い言葉は、まるでライターに刻まれたかのように、俺の心に染み渡った。

槙原は、ただ単に物を忘れるんやなく、必要なものと不要なものを見極める、独自の智慧を持ってたんやと、今になって思う。

夕方、オフィスを出るとき、俺はあのライターを握りしめながら歩いた。

夜風が冷たく吹く中、ふと気づいたんや。
ライターを握る手が、どこか安心感を与えてくれる。

それは、槙原の生きざまと、忘れることで守られてきた自分自身の一部を感じさせるもんや。

「俺も、必要なもんはしっかり覚えて、痛いもんはそっと忘れる。そしたら、また前に進めるんかもしれへんな…」

暗い夜道を歩きながら、俺は静かにそうつぶやいた。

ライターの火を灯すかのように、心の中で新しい一歩を、そっと点ける。

―槙原の言葉と、あのライターに導かれて、俺はハナウタをうたっていた。


7. 新たな扉

会社を出て、冷たい夜風に当たりながら歩いていると、ふとスマホに着信があった。画面には、知らん番号からの着信。

「おお、なんやろな…」

ためらいつつも電話に出た。

―「もしもし、カノンか?」

相手の声は、どこか懐かしくもあって、不思議な安心感を与えた。

「誰やねん、こんな夜中に」
と、問い返すと、相手は静かに答えた。

―「昔、槙原がよく言うた『忘れる力』のこと、覚えてるか? あれはな、ただの自己防衛やなく、必要なものと不要なものを見極めるための大切な知恵や。君に、もうひとつ大事なことを伝えに来たんや」

言葉は曖昧で、内容は霧の中のように捉えどころがなかった。

「何の話やねん?」

「そのライターを通して、大事なものを守る術を学んだやろ。今度は、忘れたくないものをどう守るか、考える時が来たんや」

電話の向こうから、ほんの短い沈黙の後に、続ける声が聞こえた。

―「自分の中にある、あの分裂した影たち。それらは、ただの記憶の欠片やない。互いに絡み合い、一つの物語を作り上げるための欠かせんピースなんや。もう一度、自分自身を見つめ直すんやで」

その言葉に、胸の奥がじわりと温まった。

「お前、槙原の意思を継いだんか? それとも…」

相手は笑いながらも、真剣な響きを含んだ声で、こう告げた。

―「今夜、あの古びた喫茶店に来い。そこで答えが見つかるはずや」

電話は切れ、静寂だけが残った。

俺はふと、槙原の残したライターを握りしめながら、迷いもなくその指示に従う決意を固めた。

喫茶店に辿り着いたのは、深夜のひっそりとした時間帯。

店内は薄暗く、ジャズが静かに流れていた。
カウンターの奥、いつもと変わらん古いソファに、一人の男が座っていた。

その男は、槙原と瓜二つの風貌ではなかったが、どこか、彼の影を感じさせる雰囲気をまとっていた。

男は俺ににっこりと微笑むと、こう口火を切った。

「よう来たな、カノン」

「お前、誰やねん?」

「名乗るのは後でもええ。大事なのは、今夜、カノンが何を求めとるかや」

男は、テーブルに一枚の古びた写真と、一通の手紙を置いた。

写真には、若かりし日の槙原が、笑顔で何かを語ってる姿が映っており、手紙は手書きで、やわらかな筆致で書かれていた。

俺は震える手で手紙を開き、そこに綴られた文字を読み始めた。

「忘れることは、ただの逃避やあらへん。覚えておかな、痛みも喜びも、すべては自分の一部や。
大切なんは、どの部分をしっかり抱きしめ、どの部分をそっと流すか、そのバランスや。

俺が伝えたかったんは、カノン自身がそのバランスを見つけ、未来へと歩み出す力を持っているということや。」

手紙を読み終えた瞬間、目頭に熱がこみ上げた。

何とも言えん感情が、胸の中で渦巻いていた。

「ほな、あんたは…」

俺が問いかけると、男は静かに答えた。

「俺は、ただの案内人や。カノンが自分自身と向き合えるよう、槙原の意思を託された者や。分裂した影たちは、自身の中で一つになれる力を秘めとる。」

その言葉を聞き、俺は初めて、忘れることと覚えることの本当の意味を噛みしめた。
痛みや苦しみ、喜びや幸せ――それらはすべて、俺という存在を作り上げる大切なピースや。

そして、失ったものの中にこそ、守るべき大切なものが隠れているんやと。

深夜の喫茶店、古いジャズの旋律の中で、俺は槙原の教えと新たな出会いの重みを感じながら、静かに新たな扉を開く決意を固めた。

「ありがとう…これで、前に進める気がするわ」

男は、にっこりと微笑むと、闇夜の中へと溶け込むように、ふっと姿を消していった。

俺はその場に、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

そして、ライターを握りしめながら、未来へ向けた小さな一歩を、確かに感じた。

―槙原の言葉、そしてあの夜の教えが、今の俺を支え、導いてくれる。

忘れることも覚えることも、すべてはこの大切なバランスの中にあるんやと、俺は心から信じ始めたんや。


8. 槙原の行方

翌朝、俺はいつもの喧騒の中にあっても、どこか重苦しい空気を感じとった。昨夜の喫茶店での出来事、電話の謎の声、そしてあのライターの温もり――すべてがまだ俺の胸に響いている。

会社に向かう途中、スマホに一通のメールが届いた。件名は「忘れもんの理由」。心臓がドキリとした。メール本文は短かった。


久しぶりやな(笑)←(笑)ってなんなのか、いまだによくわからんわ。

ところで、エレカシのハナウタって曲に最近ハマってます。

田舎にいながらスマホばっかり観てます(苦笑)


その日から、俺は自分自身をもっと深く見つめ直す旅に出る覚悟を固めた。

槙原の行方は物理的には不明やが、彼の呼吸は、確かに俺の中に息づいている。


9. 再会と新たな挑戦

翌日の早朝、いつもの喧騒の中で、俺はふとカフェの前に足を止めた。

いつもと変わらん街並みの中、扉が開き、懐かしい笑い声が響いた。

「おう、カノン! 久しぶりやな!」

その声とともに、槙原が颯爽と現れた。

顔には昔のあの華やかな笑みが蘇り、どこか疲れを感じさせる横顔も、どこかに柔らかさを残しとった。

「槙原……お前、戻ってきたんか?」

俺は、驚きと懐かしさが入り混じる思いで声をかけた。

「うん、うろうろ旅しながら考えててん。…忘れることも覚えることも、どっちも大切やってな。そやから、今度は新たな一歩を踏み出そうと思ってな」

カウンターの隅に腰掛けながら、二人は静かに語り合った。

過ぎ去った日々、そして互いの中にある分裂した影。

槙原は、旅で得た気づきと共に、次の人生の挑戦を胸に秘めていた。

しばらくの沈黙の後、俺は思い切って提案した。

「槙原、せやったら、俺らでシゴト始めへんか?
俺たちが経験してきた、忘れることの知恵や、覚えるべきものの重みを伝える…。誰かの大事な記憶や想いを、一緒に見つめ直す手助けをする…。」

槙原はその言葉を聞いて、しばらく目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑みながら答えた。

「お前、なかなかええ発想やな。俺も、今回の旅で学んだことは、ただ自分だけの財産としてとどめるもんやなく、誰かの心に灯をともすためのもんやと思ってたんや。なら、一緒にやろう。お前となら大切にしたい自分を大切にながら、仕事やれそうや」

その瞬間、二人の間に新たな絆が生まれた。
過去の苦悩も、分裂した影も、忘れることの中にあった痛みも、すべてがこれから作り出す未来への糧になる、可能性が揺らいで光を帯びていた。

起業への第一歩

数週間後、俺たちは小さなレンタルオフィスを借り、会社を立ち上げた。

槙原は、ライター等の修理やリメイクを始め、「忘れもん」の価値を伝えるアートプロジェクトを手がける。

俺は、自らの体験をもとに、ワークショップやセミナーを開催し、人々が忘れがちな大切な記憶を取り戻す手助けをする。

ある日、最初のワークショップの参加者が語った。

「ここで、俺の忘れていた大事な思い出が、また輝きを取り戻したんです」

その言葉に、俺たちは心からの安堵と喜びを感じた。

再会から始まったこの新たな挑戦は、
ただのビジネス以上のものになっていった。
互いの痛みと希望が交わり、新たな未来を創り出す、そんな生きた証が、ここにあるんやと信じて。


10. 秘密基地の灯り

「なあ、カノン。店やろうや」

ある日、槙原がそんなことを言い出した。

「店? カフェでもやるんか?」

「そうや。ただのカフェやなくてな、本好きが集まる場所や。そんで、ちょっと変わった泊まれるスペースも作る」

「……泊まれる?」

「店の隅にテントを張って、そこに泊まれるようにするねん。
 本に囲まれて、ロウソクの灯りの下で話をする。そんな秘密基地みたいな場所を作るんや」

槙原の目が、あの頃のようにキラキラしてた。
なんやろな、こいつのこういうとこに、つい巻き込まれてしまうんは。

「ええやん……やろうや」

気づけば、俺はそう答えてた。


11. 「灯-ともしび-」の誕生

半年後、俺たちの店 「灯-ともしび-」 はオープンした。

古い倉庫を改装して、壁一面を本棚にした。
ジャンルは問わん。小説、哲学、ビジネス書、エッセイ、詩集、漫画――
お客が自由に読めて、気に入ったら買って帰れる仕組みや。

奥には5つの小さなテントを張った。
泊まりたいやつは泊まれる。

ただし、電気は極力使わず、ロウソクの灯りだけで過ごすルールや。

夜になると、焚き火を囲んで客同士が語り合う。

過去の話、忘れられない思い出、夢、これからの人生のこと――

静かに本を読むやつもおるし、焚き火を見つめるだけのやつもおる。

それぞれが、自分の時間を過ごせる場所になった。


12. 忘れもんの意味


「ええ感じの店になったな」

カウンターでコーヒーを淹れながら、俺はつぶやいた。

「せやな」

槙原は、ふとポケットからアレを取り出した。
あのライターや。

「お前、ずっと持っとったんか」

「ああ」

槙原は静かにライターを擦った。

小さな炎が揺れ、ロウソクの芯に火が移る。


「ライターってのはな、人の手で火をつける道具や」

「せやな」

「でも、そもそも火はずっとあるんや。
 俺らが見つけるのを待ってるだけや」

ロウソクの炎が、静かにゆれてた。

「忘れもんも同じやな」

俺はぼそっと言う。

「ん?」

「大事なもんは、ちゃんと残ってる。
 ただ、俺らが気づくタイミングを待ってるだけや」

槙原は微笑んだ。

「せやな」

俺たちはロウソクの灯りを見つめながら、
この店の未来を思い描いていた。

秘密基地みたいなこの場所が、
誰かにとっての「忘れもん」を思い出す場所になればええ。

火は、ちゃんとここにある。
いつか誰かが、その灯りを見つけてくれるやろ。

夜は、静かに更けていった。

いいなと思ったら応援しよう!