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「祭りの中で暮らす(食う・寝る・遊ぶ)」体験がもたらしてくれるもの〜「いのちの祭り」から受け取ったもの〜

昨日は、「いのちの祭り」から帰宅し1日目の朝だった。

予定があり、自宅から最寄り駅までの道を歩く中で自然と感じた不思議な感覚。

それは、町と呼べる周囲の景色のすべて「変わらずずっとそこにあるもの」という意味での「静的なもの」ではなく、「過去につくられ、いつかなくなるもの」言い換えれば、「動的なもの」として観えたことだ。

もちろんこれまでも大小問わず建て替えのシーンはみてきているので建物が変わらずにずっとそこにあるとは思っていない。

しかし、目に映る建物や人をこんな風に感じたのは初めて。

「いのちの祭り」という終わりのある時空間から一歩も外に出ずほぼフル(4日間)で過ごしたことが、私のレンズ(物の見方)に影響を及ぼしたのかもしれない。

いのちの祭りのオープンチャットでシュウさんという方が共有してくれた画像。
みなさん使ってくださいと言ってくださったシュウさんに感謝
期間限定の幻の村という雰囲気が伝わるように思えて使用。

その結果、いつもの街並みが「これも期間限定の祭りだ」というように感じたのかもしれない。(この認知に、祭り自体に込められた想い・思想がどのように影響したのかも興味深い。「いのち・自然」といったテーマではない「暮らす型の祭り」の場合、同じように感じるのだろうか)

面白い。

そして、それは本当のところは事実だ。

しかし、私たちの身の周りの多くは、自然経営(じねんけいえい)でいうところの権力の流動性・境界の開放性・情報の透明性がいずれも低いことが多く、そんな中で長く過ごすがゆえに環境は固定的なものとして認識される。

そして、それだけではなく「街があるから人がいる」といった事実とは異なる認識の逆転も起こっている。

合わせて、私が数年前から探究している「お金」を含めた私たちが利用し、その一部とすらなっている様々なシステムを使えば使うほど、私たち一人ひとりに力がある、というよりも「(自分の外側にある)◯◯があるから(それに力があるから)■■ができる」といった偏った思い込みを持つことが促進される。

「いのちの祭り」「祭りの中に暮らす(食う・寝る・遊ぶ)」ことだと捉えるならば、こういった状況から、「違う視点を獲得する」、言い換えれば「より全体性を発揮する私に還る」ための効果的な装置でもあるのだなぁと思う。

きっと、最初に「いのちの祭り」を行った方々や、今も全国で続いているヒッピー的なお祭りに参加され続けている方々にとっては当たり前のことなのでしょう。

これからはそれがもっと、「一般層に」というと表現の語弊があるかもしれませんが、縁遠い人にとって身近になっていくかもしれない。

「暮らす型の祭り」という移行期ならではの形態が知られていくかもしれない。

そんなことを思う。


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