偏差値は「悪」なのか? 〜リケジョな子育てVol.24〜
noteマガジン『東工大飛び級ママの「リケジョな子育て」』/第24号です。
このnoteマガジンは、発行人・福所しのぶが日経xwoman Terraceブログに投稿したオピニオンのうち、「子育て・教育(STEAM教育含む)」テーマのものをピックアップし、一部再編集してお届けしています。
今回は2023年10月5日の投稿から。元の投稿は、日経xwomanに掲載された記事『「偏差値マウント」を持ってしまった子に親が伝えるべきこと』(下記リンク)を受けて、感じたことや気づきをシェアさせていただいたものです。では、どうぞ!
「偏差値マウント」に「偏差値至上主義」
偏差値というのは、とかく悪者扱いされがちです。
ただ、少々理屈っぽいことをいえば、偏差値を出すこと自体は本来、全体の中での自分の立ち位置を知るための統計処理にすぎません。
本人が真摯に取り組んだ指標のひとつとして捉えれば、〇〇コンクールで金賞受賞!とか、〇〇競技でベスト8進出!という場合と、本質的に変わらないはずなのです。
ところで、中学受験がテーマでドラマ化もされた『2月の勝者』で、こんなセリフがありました。
『(足が速い子や発表で主役の子は褒められるのに)勉強ができる子も褒めてって思うよね』
塾長の黒木が、成績優秀でありながらもスランプに悩む女子生徒・花恋の気持ちに寄り添って声をかけるシーンです。
がんばっている物事に対して満足のいく結果が返ってきた。その事自体は喜んでよいし、褒めてあげるべきだと思います。
ただ、問題は、学力テストの結果という限られた分野でのフィードバックに過ぎないものが、能力全般についての優劣を示しているかのように錯覚し、他者に対するマウントに繋がってしまうケースがあることだと思います。
ところで、今回の参照記事のタイトルは、『「偏差値マウント」を持ってしまった子に親が伝えるべきこと』。
ん?「親が伝える”べき”こと」??
子どもが「偏差値マウント」してるかもと気づいたとき、なにかを諭すように伝えるのが正しいのだろうか。それだけでよいのだろうか?と。
純粋なフィードバックだったはずものがマウントに繋がってしまっているとしたら、なにか尾ひれがついているからこそだと思うのです。
そもそも、マウントは、相手に対して優位に立ちたい、自分が優れていると認めさせたいという気持ちの現れです。その裏側には自信のなさや満たされなさがあることが心理学的に知られています。
子どもの偏差値マウントにあてはめると、受験準備という環境の中で、そして親も含めた関わりの中で何か満たされなさがあり、その満たされなさを補うための手段になっていった、ということも考えられます。
例えば、偏差値が親の期待に応える手段になっているようなとき。子どもの満たされなさは、親のコンプレックスや自己肯定感の低さを映し出したもの、という面もあるかもしれません。
そう考えると、子供に何を伝えていくかと同時に、子どもの偏差値マウントの一因は親である自分にもあるかもしれない、と振り返ってみることも大切だなと。
受験期の子どもをもつ親として、襟を正しながら参照記事を読みました。
参照記事の中の「キャリアの自由度を高めるためには、偏差値にあらわれてくる教科学力だけではなくて、学ぶ習慣や考える力などの非教科学力も必要」という指摘は納得。
確かに、「この人一流だわ、突き抜けているな」と感じる人は、マウントとは無縁でむしろ謙虚な印象であることが多いように思います。
とすると、勉強に真摯に取り組んだ成果については大いにほめるということと、偏差値に限らない広い視野で将来の活躍に必要な要素を語るということのバランスをとりながら声掛けする必要がありそうです。
これはなかなかに親の人間力というか、絶妙の塩梅が要求されそうですね。自戒を込めつつ、日々是精進です。
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