「底つき体験」って、要するに単なる生存バイアスだよねという話
こんにちは、すぱ郎です。
※今回は少しいつもより感情的で取り扱っている言葉も過激な内容にな
っていると思いますので、その辺りをあらかじめご承知おきください。
「底つき体験」という言葉を皆様はご存じでしょうか?私は割と最近知りました。
アルコールや薬物依存の方などに対して使用される事のある言葉ですが、症状の悪化などを原因として「人間関係や社会的地位を失う」といった極めて強い逆境に襲われる体験を「底つき体験」と呼ぶようです。以下引用します。
一応専門的な文献でもこう書かれているものなのですが、Xで「底つき体験」について検索してみると、精神医療に関わっているらしき専門職の方もこの言葉を割合肯定的に使っていたりしていて、少し驚きました。
私は「底つき体験」なるものは単なる生存バイアスであり、「結果としてあれが功を奏した」なんていう肯定的な体験に括る事は非常に危険だと感じています。そこに違和感や多少の不快感を感じたので、今回記事にまとめて自分の考えを整理してみようと思いました。
私自身は依存症の診断は特に受けていませんが、休職中に一番しんどかった時期に起きたとあることで「今思うとあれが底つき体験だったのかもな」と思う事はあります。
しかし、あの体験があったから良かった、とか、あそこでどん底に落ちたから今の自分がある、とは思いません。
だって一歩間違ったら多分今私はこんなnote記事を書いてはいなかったでしょうから。
そもそも、今この世にいたかどうかすら分かりませんでしたから。
日本は自殺が非常に多い国です。もしかしたらその中の何割かは、その「底つき体験」を乗り越えられずに既遂してしまった可能性はないでしょうか。
人は、絶望を必ず乗り越えられるほど強くはありません。私自身も単なる運のさじ加減一つで今ここにいるだけで、「今思うとあれは底つきだったよね」なんて前向きに体験の一つとして括る事は出来ません。あの時自分に起きた事は多分一生誰にも話さないと思います。
先ほど引用した論文には続きがあります
このように、現代の医療において底つき体験は否定的な見解を示されています。よって私は、タイトルにあるように「底つき体験」なる言葉は単なる生存バイアスでしかなく、少なくとも治療的な意味で使用すべきでではないのではないかと思っています。特に治療者が使っているのは単なる言い訳だろうと思っています。
防衛機制として自分自身を振り返ってそういう言葉を使用するのはまだ多少理解できますが、他者に対してその言葉を当てはめようとする事には違和感を強く覚えます。実際に底つき体験という言葉が論文上でも使用されているという事は、一定のコンセンサスを得ている言葉なのだと思っています。
単なる想像でしかないですが。臨床の現場で「あの人は底つきしたら変わるかもね」みたいな会話がなされているのかもしれないと思うと、少し怖く感じてしまいます。そうなる前に止めたれよ、と思います。相手と自分との距離を置くための見放す都合の良い言葉として使われていないか少し心配になります。
そんな感じで、「底つき体験」という言葉が割と普通に使われているのをXや文献で眺めて違和感を感じたので、その気持ちを記事にしました。
不見識な内容も多々含まれているかもしれませんので、この記事を読んで不快に思われた方がいましたら申し訳ありません。
体験がその後の行動や思考に影響を与える事はあると思いますが、それが単なる生存バイアスでしかない可能性は踏まえて、それを避けるべきものだという共通認識はもっとあってもいいんじゃないかな、と思いました。
以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました。
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