第39話 穏やかな一日
見目麗しい女中と義時がすれ違う
義時も少し頭をかしげながらもやり過ごしたが、振り返った女中は
ナレーションの長澤まさみだったぁ~
そして
「鎌倉に穏やかな日々が訪れてきました。本日は承元2年から建暦元年に至る4年間、この鎌倉で起こるさまざまな出来事を一日に凝縮してお送りいたします」そのまま、ナレーションに入った
4年間の時間の流れの中には様々なことが起きて当たり前ですが、
一日に凝縮するには濃すぎ・・・
しかし、4年の出来事を推測を生じさせることも盛り込みながらも
過去を振り返りつつも45分にまとめるのは、相当考え込まれて
作られている脚本には、毎回、舌を巻く思いです
個人的な意見となるのですが、コロナ禍の約3年
歴史に残る感染症の中にいるのだなぁ~と漠然と考えていましたが、
この3年ので見事が歴史に残るとしても教科書の見開き、
半ページにも満たない、数行で残される程度になるのではないかと
思いました
時間は有限であり、無限ではないことに改めて気がついた時に
自分を振り返ると自分の人生って何だったんだろう?
なんて、難しく考えてしまいました
交流分析の哲学には「人は誰でもOKである」があります
人は誰でも人間として価値があり、それぞれ重要で尊重される存在です
自分は自分として、あなたはあなたとして受け入れられ、人間としての
存在が誰でもOKなのです。(NPO法人交流分析協会2級テキスト抜粋)
人の存在そのものには、価値があり重要で尊重される存在である
人を憎まず罪を憎むを思いつく方も多いかと思いますが、
そうなんです
その人、そのものに何かの理由がある事情もあり、
様々な経験の結果、その行動を起こしたと考えることが出来るので、
正確に言うと「その人が起こした行動」に問題があっただけで、
その人、そのものの存在を否定することではないと考えるということですが、感情はついていきませんよね
はっきり申し上げて、私は出来ません
とは言え、同じように存在を否定される行動はしたくないので、
かかわらないように理性を働かせて近寄らないように
努力しちゃいますかね?
その人は、ご自分のありのままを認めて
「私にとって私はOKである」どこかそのように思えているのですが、
私にとってと言うことは、私の価値観の中では、私の経験では、
私の考えではであって、周囲にいる人が皆が
賛同してくれるとは限りません
むしろ、私にとって私はOKを前面に出して自分を認めさせるような行為は
私は相手をOKと認めません
と、メッセージを出していると捉えることが出来ます
しかし、本来お互いが尊重し合える関係なら認めさせるような強引は行為は、必要ありません
さて、義時と実朝のやりとりを思い出してください
義時は鶴丸に諱を与え氏を与えました
「平盛綱」の誕生です
平盛綱を御家人に推挙する時に、実朝に反対されます
年の功だけあって義時は押すところは押しますが、引くところも上手ですが
義時「鎌倉殿の一度口にしたことをひるがえしては、政の大元が揺らぎます
私のやることに口を挟まれぬこと。
鎌倉殿は見守ってくださればよろしいのです」
この、言葉の向こうには「鎌倉殿が余計なことを言い出すと自分の計画が崩れてしまう弱みがあるから、自分の存在の価値を上げておく」という裏面を感じます
つまり、強引な行為の向こう側には弱みを握られたくない
そのような思いが隠れていると言えます
人が人を批難する瞬間や自分が人を批難する瞬間に垣間見える
認めたくないありのままの弱みを見せたくない瞬間が
あるのではないでしょうか?
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