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上司の期待に応えるという病

期待という言葉は日常だけでなく、ビジネスシーンでもよく聞かれる。上司として期待を部下に伝える。上司からの期待に応える。といった具合に。ぼくも、部下に期待を伝えることは度々だ。こうなってほしい、ああしてほしい。といった具合に。

社長以外の全員が上司という存在と対峙する。そして、経営には方針があるという点で、その方針に則った上司からの期待に応えることは、働く人にとって重要事項である。上司からの期待に忠実で、その期待に応える人物が会社で評価される。ましてや、上司の期待に背くという行為は、自身の仕事人生を危うくするという意味で、リスキーだ。このように期待に応えることは、働くうえで、大抵の場合はよい意味で使われる。(ときに、Yesマンと揶揄されることもあるが)

とはいえ、期待に応えることはいいことばかりではない。期待に応えるということは、ある意味で、自分の意志や考えを捻じ曲げねばならないことを意味するし、期待に応えるために自分という存在を犠牲にするということだってありうる。結果的には、燃え尽き症候群になってしまうこともある。

さらには、期待に応えようとするあまり、むしろ、仕事のパフォーマンスが下がるってこともある。どういうことだろうか。期待に応えるということは、すなわち、期待に添わねばならないということだ。期待に応えようとすることは誰にでもできる。でも、期待に応えようとした結果、その期待に添えるかどうかは、その当人が期待に沿うだけの経験や知識、能力を有していなければならない。でも、そうでない場合は?

期待そのものが十字架になり、上司からの期待を絶対視し、期待に添えなかったらどうしようという不安にさいなまれたり、その不安によって、完璧主義になり仕事の進捗が悪くなったりする。期待に添えなかった場合、自分は存在意義を失うといった感覚に陥り、ドツボに嵌ってしまう。そうして、上司の期待に忠実な部下は潰れてしまう。そういうことが起こる。

ピグマリオン効果にもあるように、上司は部下には大いに期待をするべきだし、その期待を伝えるべきだ。でも、相手にとって高すぎる期待は、本人の負荷になりかねない。期待を受けとる側は、上司を神格化したり、期待を絶対と捉えたり、上司の期待に応えること=自分自身といった具合に、同一化することは避けねばならない。

期待に応えるという日常の一コマにおいてさえ、病ははびこっている。


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勝又康仁 人事と組織開発 HR&OD
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