看病の休日、あるいは組織開発と唯識について
今日は次男の発熱もあって休みをもらっている。奥さんの体調も芳しくないのだけれど、長男とぼくに移さないようにということで、手分けをして面倒を見ることにした。
ということで、ぼくは長男と海老名に来ている。比較的大きな子どもの遊び場があるのだ。室内の砂場で長男が夢中で遊んでいる隙にnoteを書いている。
ぼくが休んでいるだけで、Slackにはたくさんのメッセージが流れ込んできている。休日といえども仕事を忘れることができない。そして、それも当然のことのようにストレスを感じていないぼくは不感症と言うべきだろうか。
繋がりすぎる社会。あまりに接続されすぎていて、今この場を大切にすることができない。というぼくも、今スマホをもってnoteを書いている時点でその呪縛に嵌っている。
テクノロジーを放棄する必要はない。でも、テクノロジーによって齎される弊害は極力排除していきたい。
2024/12/26 12:23 @海老名 長男と子どもの遊び場で
自分だけ働かずに休んでいようとSlackのメッセージが飛んでくるのは当然のこととして、もうひとつ頭をよぎるのは、なぜ、あなたは休んでなんかいるのだ、という他者からの批判である。
ありがちなのは、自分はこんなにも頑張っているのに、なぜあなたは休んでいるのか、または、早く帰っているのか、という批判である。労働時間が長いか短いかが起点となっていると思う。
この手に関して、気持ちはわかるが心理的な未熟さも反映しているように思える。
自分が何ものかによって働かせられていると当人が考えたときに、生まれる批判だからである。批判された側からすれば、では、もっとはやく帰ればよいではないか、と言いたくなる。ましてや、自分の生産性のなさが問題で長時間労働になっているかもしれないのに。不遜な他者糾弾なのである。
こういう人たちに欠けているのは、自己選択である。大変な思いをして長時間労働をするのが嫌なら、他者を責める前に帰ればよいのだ。長時間労働をやめて帰ることを選択すればいいのである。
では、なぜこんなにもシンプルで簡単なことができないか。それは、自分の有能さを信じることができないからではないか。はやく帰ることによって、成果が出せなくなるかもしれない。その恐れから、はやく帰れないのである。突き詰めればその人自身が抱える問題なのである。自分の問題から目を逸らすために、他者を批判をしているだけだ。
この手の問題は枚挙に頭がない。個人の問題を他者に投影することによって、組織のプロセスは悪くなるのである。そういう意味で、ぼくは組織開発を携わりながら、唯識を学んでいるのだと思う。
2024/12/26 22:43 @茅ヶ崎 寝室にて