日記 2020/03/18
ウドー音楽事務所から電話があった。Bob Dyalnのチケット払い戻しについてだ。メールでも連絡もらっていたが、個別に電話でも連絡しているのだろう。大変だ。心から残念だとは思うが、この状況下では仕方がない。電話先で対応してくれた方は申し訳なさそうにはしていたが、わざわざ電話してもらうのも何だか申し訳ない気持ちだ。
先日読了したいとうせいこうの『想像ラジオ』の第4章は、ある作家と既に亡くなった恋人との会話なのだが、彼女ならそんな反応をしてそう言うだろうと作家が想像して書いたもので、読んでいて妙に既視感があるなぁと思っていた。その既視感はつい最近読んだドミニク・チェンの『未来をつくることば わかりあえなさをつなぐために』で書かれていたベイトソンのメタローグそのものだった。
ベイトソンのメタローグとは、記憶のなかで話し相手を自己の内側に生起させる方法であった。であれば、思い出すという行為はそれ自体が微小なメタローグの契機を生むものだと言える。父のなかで、または娘のなかで、相手を生かし続けること。この構造は家族同士ではない関係であってもひとしく、記憶のなかで相手との共在感覚を持続させるだろう。
思い出すという行為は、現在のなかに過去の経験を挿し込み、現在にフィードバックさせるものだ。その意味では、過去は終わらないし、未来の在り方にも関わっている。いつからか、わたしは死者の記憶を想起することで死者が生者のなかで生き続けるという感覚を持つようになった。だから自分がいつか死んだとしても、生者のなかで生かされ続けるかもしれないとも思えてくる。
もしかしたら、娘の誕生で感得した祝福の念とは、自分の存在を忘れないでいてくれる関係性が出現したという認識とつながっていたのかもしれない。こどもからしたら全くもって身勝手な了見だと思われかねないが、少なくともわたしが娘のことを忘れようがないことは保障されている。
もしくは、互いにたとえ狭義の「家族」ではないとしても、眼前の相手のことを忘れないという意思を示すことによって、共に在る感覚は持続されうる。
(ドミニク・チェン 『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』pg194-195、株式会社新潮社)
『想像ラジオ』と近いタイミングで『未来をつくることば』を読めたというのは、読書体験という意味では今後忘れられないとても強いものになったように思う。ただでさえ、『未来をつくることば』は今年読んだ本の中でも圧倒的に揺さぶられた本だったが、それを物語を通して改めて体験できたようなものだ(本の中でもタイプとレースのくだりでいとうせいこうのタイプライターの写真が載っていたし、今気づいたが、本の帯を見るといとうせいこうの推薦文が書かれている)。
今日から宇野常寛の『遅いインターネット』を読む。