日記 2021/09/02

滝口悠生の「長い一日」と坂口恭平の「躁鬱大学」読了。読了するときは不思議とタイミングが重なる。

「長い一日」は1日に1話ずつしか読んでこなかったから、読み終えるまでにその話数分の日数を要したことになるが、読んでいる時間があまりにも心地よく、読み終えるまでの時間をできる限り先に延ばしたかった。それでも毎日読まないわけにはいかず、だから読了までにかかった期間はその話数分きっかりだ。toi booksでの購入特典のouttakeは最終話と同じ日に読んだけれど。

小説を読んでいた間は、この日記の文体にも「長い一日」の小説の影響があったように思う。意識的にそうしたこともあった。無駄に「それで」から始めてみたり。

「長い一日」の登場人物の窓目くんは滝口悠生のほかの小説にも出てくるから、「長い一日」の世界の一部分は続くのかもしれないが、本を読み終えた時点で終わりは終わりである。とくに結末らしきものがあったわけでもないが、読み切った時点で一旦は物語は閉じる。

しかし、滝口悠生の小説は、いつも読み終えた後の余韻がとても気持ちが良い。その余韻が癖になる。小説の中での記憶だけでなく自分の記憶もほじくられる感覚があって、読書をしながら自分の思い出に浸ることもしばしばだ。滝口悠生の本は読了後も何度も本を開きたくなる。「長い一日」は装丁もいいから、余計また開きたくなるだろうと思う。

「長い一日」で、ある殺人事件に絡んだ男性が柔道着を着ていたといエピソードがあった。外国出身のジョナサンは、その柔道着を着ていた男にニッポンの美学を感じるが、ジョナサンの妻であるけり子は、そんなのはステロタイプに過ぎず、いまどき柔道着を着て外に出る人なんぞいないと言った。

やはりそうなのか。
やはりというのは、僕の家には柔道着のアウターがあって、それをどうするべきか扱いに困っていることを思い出したのだ。

大学の頃、地元に帰省した際に、一度も行ったことがなく、その存在すらも認識していなかった近所の服屋にふらっと入った。そこにあったのは僕が普段あまり着ることがないようなデザインのものばかりで、それが男性物か女性物かの区別すら判断できないようなものがほとんどだったため、そんなに広い店内でもなかったのに無駄に店内を動き回っていた。真剣に服を見ていたわけでもなく、わからないから店内をうろうろしていただけなのだが、そんな僕の姿が困っているように見えたのか、もしくは不審に思われたのかもしれないがとにかく店員さんは声をかけてくれて、しかし僕に声をかけてきたタイミングでは店内には客は僕しかいなくて、店員さん2人と客僕1人の状況になった。

そんな僕に店員さんが勧めてきたのがこれまた独特のデザイン、シルエットのアウターだった。
それは柔道着をリメイクしたもので、へぇ〜、柔道着には見えないですねぇとか返事をしたのだったが、実際に手に取ったときには柔道着には見えなかったのだ。店員さんはすかさず着てみてくださいと勧めてきて、2人の店員さんが「まぁ!」「この服似合う人めったにいないんですけど似合ってますねぇ!」と怒濤の褒め言葉を浴びせ、いま考えれば似合う人がめったにいない服なのになぜ僕は似合うのかと疑問を持たなかったのはなぜなのかがよくわからないが、気づけば僕は満足な気分でその服を買っていたのである。

帰宅後、「これ柔道着のリメイクらしいっちゃけど見えんやろ?」」と言ってさっそく母にその服を着た姿を見せた。母の反応は芳しいものではなく、「うーん…独特のデザインねぇ」「いやぁ、それは柔道着にしか見えないわね」と言われた。柔道着なのに柔道着のようには見えなくて独特のデザインで、しかもそれが僕に似合っているらしいから買ったのに、柔道着だと一蹴され意気消沈してしまった。それ以来、外で着たことがあるのは数えるくらいで、特に太ってからはサイズの問題で着ることすらできなくなり、タンスに入れっぱなしになっていた。

先日、服の整理をしていたら、その服が出てきた。この服は妻の中ではもはやネタになっていて、いつ着て見せても爆笑される。痩せたことでまた着ることできるようになった柔道着だが、痩せても柔道着はやはり柔道着で、体育の時間以外に柔道をやったこともないのに妻と娘の前で柔道のポーズを取りたくなる。

それでも痩せたこの時期、家と外の服がボーダレスになり寝間着のような格好で出かけても目立たなくなったこんな時期だからこそ、いよいよ柔道着の出番ではないかと思うのである。

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