日記 2021/04/03
今日も当たり前のように日記を書いている。
数ヶ月に1回くらいふと頭によぎることもあるが、今更ながら日記を毎日書くことに対して疑問を持つことはない。1日の終わりに、気づけばPCもしくはiPadでその日の日記を書いている。日課で日々の三食と同じようなものだから、書いていない状態で寝るなど考えられない。
しかし、コロナ禍以降、日記の内容が単調になってきている。それは誰から指摘される必要もなく、僕自身が一番よくわかっている。ほぼ毎日家に、しかも多くの時間を書斎の狭い空間にいるから単調にならざるを得ない。熊谷守一のように、何かを観察することもない。ただPCを前に座り、画面を見てタイピングをする。
日記が単調ではない日は、娘の成長のことを書いている。娘はコロナ禍で家にずっといようが、日々確実に成長していて圧倒される。最近ではその成長度合いには追いつけていないところもある。
2歳8ヶ月にして、完全に言語によるコミュニケーションができているのは驚くべきことだ。これは他の子より成長度合いが早いとかそういうことではなく、そもそも同じ月齢の子と関わることがほとんどわからないから気にしようがなく、ただ単純にこんなにも早く言葉でコミュニケーションができるようになるとは思わなかったということである。2歳になったころは2,3語つなげて話すのがやっとだったはずなのに、8ヶ月でこんなにも話せるようになった。
先日、「アナと雪の女王」を借りた。例の「ありのままの〜」の歌には娘もはまって、それから何度となく歌っている。
ただ、娘は「ありのままの〜」を「ありのママの〜」と思っているらしく、「ありのパパの〜」だったり、娘の名前は2文字なのでママの部分に娘の名前を当てはめて歌ったりしている。勘違いにより偶然生まれた替え歌であるが、なかなか僕ら大人には考えつかない替え歌の仕方だなぁと思う。言語を習得してはいても、言語に縛られることなく柔軟に使って遊ぶ。その発想にはいつも驚かされる。
この日記を何のために書いているかと言えば、将来自分が、そして家族が読み返すようにと思ってのことだが、家族が読むようにというのは少し傲慢かもしれない。結局は自分のためであり、しかし僕だって読み返すかはわからない。ここ1年の日記が単調になっていることは許して欲しいと将来の自分に対して思いながら日々書いてはいるが、この単調さだって、将来のある時点からみれば豊かであるなのかもしれない。生活が単調だからといって豊かでないとは限らない。
いつかは日記が書けなくなる日がくるかもしれない。いまをもっと肯定していいのだ、少なくとも必要以上には否定しなくてもいいと思う新年度最初の土曜日である。