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ジョジョとキルケゴールに学ぶ生き方

最近私のマインドセットに大きな変化があった。「どうやって死ぬか」よりも「どうやって生きるか」について考えるようになったのだ。まあ普通の人からすれば当たり前のことなのかもしれないが、数週間前まで前者で頭がいっぱいだった私にとっては革命的なことだ。
この心象の変化の手助けをしてくれたのはジョジョ5部とキルケゴールの哲学だった。ベッドから起き上がれず、食事も睡眠も碌にとれない時期にふと思い立ってジョジョシリーズを4部から観返していたところ、5部屈指の名言であるアバッキオの同僚の言葉がめちゃくちゃに沁みた。

そうだな…わたしは「結果」だけを求めてはいない。
「結果」だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…………近道した時、真実を見失うかもしれない
やる気も次第に失せていく。
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。
向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう? 向かっているわけだからな……………違うかい?

『今にも落ちてきそうな空の下で』より

ずっと先のことを考える度に頭が痛かった。今こんな状態で行きたい大学に行けるのだろうか。というか高校卒業すら危ういんじゃないか。自分の中で思い描いていた道筋と違う方に行けば行くほど不安になっていく。私は「こうあるべき」に囚われ、理想の結果が望めないならもう死ぬしかないのでは…と極端な白黒思考に陥っていた。そんな時、この言葉が目を覚ましてくれたのだ。結果だけを求めて近道をしたがっているのはまさに私のことだ。生きようとする意志さえ捨てなければどれだけ回り道をしてもいつか望む未来に辿り着けるのではないかと思わせてくれた。自省することは大切なことだが、そこで絶望して自暴自棄になってしまっては本末転倒である。
キルケゴールも似たようなことを教えてくれた。

現代は分別の時代であり、反省の時代である
ひと昔前の革命の時代は、情熱に富んだ行動の時代であったが、現代は思慮を巡らすばかりの無感動の時代であり、行動に出ないことが賢明と弁えている時代である。だが、反省に終始するだけでは何も生まれてこない。情熱を傾けてことを起こしてこそ、生きた人間なのである。

名著のことば キルケゴール / 中公クラシックス

自殺者でさえ、今日では、絶望して自分に結末をつけるのではない。むしろ現代の自殺者は、この自殺という行為について熟慮に熟慮をかさね、ために、ついに思慮分別に窒息してしまうのである。だから、そのような人間をほんとうの自殺者と呼べるかどうかでさえ疑問だと言っていい。というのは、彼から生命を奪ったものは、なによりもまず熟慮だからである。

現代の批判 / セーレン・キルケゴール

キルケゴールの思想を語る際によく使われる「信仰の跳躍」という言葉がある。これは要するにあんまり考えすぎずとりあえず信じてみる/やってみる、的な意味合いで、馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが私は大切なことだと感じる。
人生上手くいかないことも当然ある。だが、生きていくためには不条理さや絶望とどうにか折り合いをつけていくしかない。そこで熟慮して自殺してしまうくらいなら、不確かなものに縋ってでも前に進むことが最善なのだ。ここでいう不確かなものは、理想の未来でも、宗教でも、哲学でもいい。キルケゴール自身がキリスト教に対する宗教的実存という極致に至ったように、私にとっての主体的真理はここで紹介している考え方そのものであり、今はそれに縋って生きている。

ジョジョとキルケゴールから、主体的に生きるということを学んだ。これらの言葉や考え方は確実に私を後押ししてくれた。実際そんな深い話でもないのだが、私のように考えすぎて破滅の道を辿るような完璧主義者(極端思考者)にとっては忘れがちなマインドだと思う。
最近はできることから少しずつ着手するようにしている。ここから未来が好転していくのかどうか定かではないが、向かおうとする意志さえあれば、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな…違うかい?


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