プリクラが持つ参加型アートとしての可能性
プリクラというものは非常に面白い装置である。今や無加工で自然体な写真がトレンドになりつつあるものの、未だ思い出作りの一環として根強い人気を誇っている。特に最近のプリクラは原型を留めないほど強い加工がかかることで知られていて、それを気持ち悪いと嫌う人も一定数いる。だが私はそこに参加型アートとしての可能性を見出した。プリントシールは人物の像を媒体に撮影→編集→印刷という過程を経て完成するアート作品なのだ。撮影段階で入力される顔や体型などの情報は時代ごとの美の基準に合わせて画一化された上で出力される。そこに撮影者自らが落書きなどの編集で独創性を加え、最後はシール写真という形で印刷されるという一連の流れは、誘導されるがままに、しかしある程度の自由度を与えられた上で作品を完成形へと近づける参加型アート鑑賞者の挙動とそっくりではないか。
とりわけ注目したいのは撮影段階での「入力される顔や体型などの情報は時代ごとの美の基準に合わせて画一化された上で出力される」点だ。これこそがプリクラをプリクラたらしめている所以であり、所謂韓国プリ等他のフォトブースと違って独自のアイデンティティを築いている。別人としての束の間のファンタジーを楽しんだ上で各々が独自のアレンジを加えられるというコンセプトは、寧ろ現代のルッキズム社会に対するアンチテーゼであり、美の基準によって画一化された自らの姿を表現媒体とすることによって客観視する機会を与えているものと考える(プリクラを制作する側にそのような意図があるとは考えにくいが、あくまで私の解釈だ)。加工によって個性を失った姿に、どのようにして編集を加えたら「自分らしさ」を引き出すことができるだろうか。ルッキズムにより見た目の個性に名前が付けられコンプレックスとして揶揄される中、見た目以外の部分でどう周りと差別化を図るか。そんな問いを投げかけてくるような面白さのある装置だと改めて感じた。みんなもプリ撮ろう。
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