母のこと
今の気持ちを少しつらつらと。
母は半年に1回通院してます。
血液内科への定期受診。
約26年前。
慢性骨髄性白血病(血液の癌)が判明し、その後の経過を観察する為の受診。
当時はまだ子供だったので詳しく聞かされず、骨髄移植で型の合う方が見つかるまでの1年は私と妹には内緒で病院に通い、できる範囲の治療をしていたそうです。
余命も4ヶ月と言う時に、奇跡的に型の合うドナーの方が現れ骨髄移植が決まりました。
骨髄移植が決まっても、当日までにドナーの方が万が一体調を崩せば…当時台風が来ており飛行機が飛ばなければ…移植は叶いません。
奇跡が重なったからこそ、今も母は生きてます。
移植の為の入院が決まった少し前、両親に「話がある」と呼ばれ、実は病気で入院するという事を初めて聞き、「でもドナーが見つかったから大丈夫だよ」とまだ子供だった私と妹を安心させるよう話してくれたのが伝わったけれど、
なんとなくその時の雰囲気で大変な事が起きていると察してテーブルに突っ伏して泣いてしまった事だけ覚えてます。その後はどうしたのかな…記憶にない。
ただ、ドナーが見つかるまで隠し通してくれてた事、生きる希望が持てたタイミングで教えてくれた事…必要以上に余計な心配をせずに済んだのは結果的にとても有難かった。
骨髄移植が行われ、その後はテレビで見た事があるようなガラス張りの部屋「無菌室」に母が入り、頭は抗がん剤や放射線治療も受けた為、薬の影響で髪の毛も抜けて丸坊主。
見た事がない母の姿。
面会はガラス越しにインターホンで会話。
気丈に振る舞ってくれてたけど、吐き気がしたり辛そうなのが伝わってきて、あの時の何とも言えない光景が今も蘇る。
無菌室での期間を終え、一般病棟に移り、結局6ヶ月程の入院生活だったのかな。
長かった…
入院期間が長かったので、お見舞いをきっかけに私も色んな方と話す機会があった。
その中で、何人の方が同じ病気で亡くなっていっただろう…
母も移植は成功したものの、やはり癌という事で完治はなくあくまで寛解、当然再発のリスクもある訳で退院後も検査の度に(私が)一喜一憂する日々。
母は毅然とした姿で前向きだったけど内心は不安だっただろうな。
後から聞いたところ「絶対に治すと思ってた。治すことしか考えてなかった。まだあなた達が小さかったから必死だった」と言っていて、母の強さを知る。
骨髄移植も大きなリスクがあり、移植により命を落とす人もいる。医師からドナーが見つかった報告と移植のリスク、移植するかの話を持ちかけられた時に、
「移植しなかったら死ぬんですよね。どうせ死ぬなら生きれる可能性のある移植、するだけします。」と答えたそう。
当時は自宅にネットもなく、私もまだパソコンを使いこなせる年齢でもなかったので、何も情報を得ることが出来なかったけれど、逆にそれが良かったのかもしれない…と思う。
ふと目に入った内容。
母は25年生きて、気付けば私も成人し、家庭を持ち、子供も生まれ、そんな子供(母にとって孫)も11歳。
移植した事で人より身体が弱いのは理解してる。でも…出来れば少なくとも息子の成人までは…いや、息子が結婚するまでは…息子が子供を産んで曾孫を見るまでは生きてて欲しい…。
最近そんな母にちょっとした心配事があり、検査が続く日々。
もう70代だけど、まだ70前半だよ。どうか何事もありませんように…大事ではありませんように…
自分に出来ることは何なのかな。模索中です。
母の病気の事を詳しく文字にしてここまで書くのは初めてで、
今までは「白血病」という文字を見る事さえ怖くてNGだった…
色々あり、25年振りに母が骨髄採取の検査をする事になりました。。結果が不安で仕方ないけれど、何故かこのタイミングで、当時から今までの自分の気持ちをまとめたいと思った次第。
母が25年以上、今も生きているのは主治医の先生や医療に携わってくれた方、まだ小さい私達姉妹を心配して家に食材を届けてくれたご近所さん、隣に住んでた今は亡き祖母と叔母…
そして何より、顔も名前も知らない、決まり上知り得る事の出来ない、当時東北に住んでいたであろう母に骨髄を提供してくれたドナーの方。
感謝を伝える方法もないし、言葉では伝えきれない…心からのありがとうございますの想い。
私も母も父も妹も、東日本大震災の時に1番に頭をよぎったのはドナーの方の事と無事を祈る気持ちだった。
どうか、今も元気に過ごしていますように。
直接は不可能なので、感謝の気持ちをここに綴ります。
(母の事ばかり書いてしまった、父のことも少し、笑。
父は元気でDIYにハマってるのでどちらかというと怪我が心配(¯―¯٥) この前、指切り落としかけたって言ってたし笑えないー!( ´ Å ` ; ) アハハ…
母の闘病生活やまだ小さかった私と妹をずっと支えて働き続けてくれて、感謝と尊敬しかない偉大な存在です)