noteを1年続けて気づいた「書くこと」が教えてくれたこと
努力や継続が極端に苦手である。しかし、書く、と決めると「あぁ書かなきゃ」「これも書きたいな」という出来事が次々と出てくる。かなり面倒くさい。
それなのに毎回、書くことを選んでいた。物ぐさのわたしが、せっせと書いている。noteにアップする。アクセス数をしつこくチェックし、がっかりする。1年が過ぎようとしている。
さまざまなことが起きるのが現実だ。時に、つらいことやかなしいこと、できれば自分の人生に起きてほしくない出来事も起きる。でも、これらの出来事に対して「起きたとしても、まぁ大丈夫かな」と思える自分がいる。
書くことで、のん気な強さがムクムクと育ち始めた。
怒りが込み上げ、取り乱した出来事があったとしても、あとから文章にすると、ずいぶんと冷静になっている。少なくとも、再び怒ったり、取り乱したりすることはなかった。その出来事が起きた時に沸き起こった感情の高ぶりは、静まっていることがほとんどだった。嵐は過ぎていた。
書きながら、嵐が過ぎ去った森を歩くような気分になっていることがある。
木々が倒れ、枝葉は折れている。しかし、葉で覆われていた場所には光が差している。新たに生まれた空間に、新鮮な空気が循環し始めた。雨風が掻き混ぜた大地には養分が育つ。激しい嵐に耐え抜いた巨木とも出会うかもしれない。だがこれらのことは、森の中に分け入って初めて知ることだ。
書くことは、嵐が過ぎ去った森を歩くことと似ているのかもしれない。
視界が遮られる嵐の真っ只中、感情が渦を巻くさなかには、見ることのできない景色がある。恐ろしい嵐がもたらしてくれた恩恵を目撃する。
書くことで、わかることがある。
わたし自身、このエッセイを書きながらこの考えに至った。
書くことでしか、わからないことがある。
どんな出来事に対しても「まぁ、大丈夫かな」と、くつろいでいられるようになったのは、文章を通してその出来事との再会があることを知ったからかもしれない。その再会はいつも「会えてよかった」と思わせてくれる。
書くことは、人生を再読することだ。一度目よりも、ずっとやさしい目で。
エッセイストとして活動することが夢です。自分の作品を自費出版する際の費用に使わせていただきます。