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分かち合えないことは、ふしあわせなことなのだろうか

次なる旅暮らしの拠点に向かう島根県 JR木次線の車両内。一両編成のこの電車は、山間や広々とした田んぼを通り過ぎた。綺麗。

「今日の花火、キレイかなぁ?」

ふと耳にした家族連れの会話をきっかけに、近くで開催されるらしい花火大会に行くことにした。花火大会なんて随分久しぶりだ。いや、わたしだけじゃない。日本のあちこちで中止が続いたコロナ禍を経て、みんなが数年ぶりに体験するお祭りなはずだ。

風情を感じる町屋の商店街に、屋台が並んでいた。からあげとやきそばとかき氷と大判やきとか。大きなお祭りみたいに種類がたくさんあるわけではないけど、お祭りらしさを満喫するには十分だ。雲南市加茂町、加茂二十三夜祭。

綺麗だ。花火は何も変わらず、当然のように綺麗だ。縁もゆかりもないこの土地で、数年ぶりのかがやかしい花火を一方的に懐かしく思った。

近隣に暮らしている人たちにとっては、待ちに待った地元のお祭りであり、長い期間準備をかけてきたイベントなのだろう。行き交う小中学生、高校生たちの嬉々とした声があちこちから聞こえる。とおり過ぎる人のひたいが汗で光っている。

たしかに同じ花火を見て、同じ時と場所を共有しているはずなのに、おかしな気分だ。ここで楽しむ人たちの気持ちとわたしのそれは、同じではない。小さな商店街に詰め込まれた人の流れに身を任せながら、ふと孤独を感じた。

分かち合えないことを、さもふしあわせであるかのように安易にかなしんだ。分かち合えることはうれしい、分かち合えないことはかなしい。向き合うことをほどほどにして事象と感情を簡単に決めつけ、つなげてしまうみたいだ。

でも、わたしの体験や感情を否定されているわけではないはずだ。分かち合えなかったからといって、それらを片隅に追いやってしまう必要はないのかもしれない。わたしが見たもの、聞いたもの、感じたこと、誰かにわかってもらう前に、わたし自身がもっと愛でてもよいのではないか?

川の向こう岸にあがる花火を眺めながら、そんなことを思った。


エッセイストとして活動することが夢です。自分の作品を自費出版する際の費用に使わせていただきます。