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「そこは地の果てアルジェリア」が始まりであった
ものごころがついた頃には、私は言葉も通じぬ国で寝起きをしていた。
その土地の記憶が強烈すぎて、そこに滞在以前に暮らしていた土地の記憶はほとんど皆無である。
最近はカミュの小説「ペスト」のおかげでふたたびスポットライトを浴びている国である。カミュの「ペスト」が発表されてから数十年の年月が経った頃のことである。
私達が住んでいたのはアルジェ市であったがペストの舞台になったオラン市にも出掛けたことは、一冊の写真アルバムが証明してくれている。
その時に「ペスト」を読破していたのであれば、ゆかりの地の写真を撮りまくっていたのであろうが、フランス語はおろか母国語さえも覚束なかったので、この小説のメインテーマ「不条理」は理解の範疇を越えていたであろう。
その時分の私は幼かったので、辛い、きついと思うほどの知能も感受性もなかったもしれないが、それでも「もう外国やだ。明日、一人で日本に帰る」、と親を悩ませていた記憶はある。
それほど異国嫌いであったのに拘わらず結局は異国に戻った、とは人生とは皮肉なものである。
母は語学を容易に習得出来るタイプではなかったが、当時のアルジェリアにおける日本人社会、あるいは駐在外国人社会は比較的和気藹々としたもので、さいわいノイローゼに陥るようなことはなかった。
母は日本語しか出来ないので、どのように外国人と会話を行っていたのかは今でも謎であるが、伝える意志さえあれば文法および語彙などはそれほど重要ではないということになるのであろうか。
私たちは、現地人の姉妹から借りていた平屋の一軒家に住んでいたのであるが、その家の庭には可愛い二匹のうさぎが走り回っていた。
白いうさぎと黒いうさぎであった。
ある日、妹と一緒に庭で鬼ごっこをしていた時、洗濯用の干し竿に干されていたものにぶつかりそうになった。ニ片の歪な形の肉塊であった。庭から二匹のうさぎの姿が消えたのも同じ頃であった。
その平屋に関して、ほかに残っている記憶は、床が白っぽいクリンカータイルであったことと、お風呂をガスボンベのようなもので沸かしていたことである。
ある日、夜中に父が私達を揺すり起こし、即座に庭に出るように促した。
ガスボンベからガスが漏れていたそうだ。発見がもう少し遅れていたらこの記事が世に出ることもなかったであろう。
その他にもいろいろと、おそらく想像はし難いほどの苦い経験をした国ではあるが、アルジェリアに関しては美しく楽しい追憶も多くある。
週末ごとには大声を上げながら台車を押している行商もいた。
昼頃に街の通りに現われ、「エスカルゴ、エスカルゴ」と大声で叫んでいた。カタツムリ料理である。カタツムリであるとは知らされず、その原型を見なければ食べれないこともないかもしれない、と、思ったが生理的に受け付けないものはやはり無理である。
カタツムリの話が続くが、ある駐在員の家に行った時のことである。
その夫婦は一軒家を借りていたのであるが、その家の外壁はカタツムリの集団に覆われていたことも記憶に残っている。
今度はカタツムリではなくウニの話になる。
駐在員同士で一緒に近場に出掛けることもあり、地中海の岩場に座って新鮮なウニを食べていたこともある。それは偶然岩場に落ちていたものか、専門の人が採ってくれたものか、そんな記憶でさえ今では曖昧になっている。
またある時は、砂漠を訪れた時、私は蜃気楼を見たのであるが、同行した人たちには見えなかったという。その記憶は明瞭である。私は子供であったので蜃気楼という言葉も現象も知らなかったほどなのであるが、そこに居るはずのない一行が見えたのであるから。
父は毎晩、疲労困憊で帰宅してきた。その心労で口にするタバコの量もかなり増えていた。エンジニアというものは時には労働文化、生活習慣、宗教等のまったく異なる国に送られることもあり、現地労働者と如何に協力してプロジェクトを進めるかということはかなりの試練になるのであろう。
それでも父にとっては永年暮らしたアルジェリアは追憶の国であった。日本に帰国したあとも、アルジェリアで購入したアラビア語のレコードを、意味もわからずに、懐古の表情を浮かべながら一人で静かに聴いている時が多かった。
海外で働くということは時には、命を張ることを意味する。八年前にこの地で起きたニュースは未だに皆様の記憶には新しいであろうか。
呆然とテレビ画面を見ていたらしい父の心中の瞳孔にそのニュースがどのように映っていたのかは、今となっては知る由もない。
地の果てのこの国は、多くの日本人にどのような想いを残してきたのであろうか。
「カスバの女」
オリジナルのエト邦枝さんのバージョン
緑川アコさんバージョン
ちあきなおみさんバージョン
八代亜紀さんバージョン
石原裕次郎さんバージョン
ご訪問有難うございました。
暇な訳ではありませんが、どなたの「カスバの女」も捨てがたくとりあえず五名様にご登場お願い頂きました。オリジナルは1955年のエト邦枝さんです。Wikipediaによると他にもこの方がたがカバーされていらっしゃったそうです。
敬称略 五十音順
青江三奈、アイリー・隆、扇ひろ子、春日八郎、菊池章子、岸洋子、工藤静香、沢たまき、沢久美、三界りえ子、高峰文子、竹越ひろ子、パティ・キム
藤圭子、りりぃ
noteコミュニティには海外の現場で活躍(苦労)されている方々の武勇伝も豊富ですね。
写真は PixabayのSophieLayla Thalさん(最初の二枚)と、Jacqueline macou(最後の一枚)さんからお借りしました。