もしも1ヶ月後に死ぬとしたら
今日は、自分の死について書いていこうと思う。
人間遅かれ早かれいずれ死ぬことは間違いないが、その瞬間が、もし1ヶ月後に来るとしたら、自分は何をするだろうか?何を思うのだろうか?まぁそんなことを考えてまとめてnoteの記事にしたところで、読んでくれている皆さんの人生の何の足しにもならないだろうが、自分の死生観をお伝えすることで、何か閃きや悟りのようなものを感じてくれたらいいな、と、この記事を書く意味を無理やり作るのであった。
以前、死についての記事を一年前くらいに書きまとめて投稿してから、自分の考え方がさらにアップグレードした。以前は、「死んだ後のことばかり考えていてもしょうがないし楽しくないから、来世が絶対あることにしよう!心から信じてみよう!」というような生き方をしていたが、養老孟司先生の動画を見て、少し考え方が変化した。それは、「自分の死は論理的に意味がない」という言葉だ。(↓以下先生の動画)
動画を見れば、この言葉がどういう意味なのかが大体わかるが、これはつまり「自分の死は自分で認知できないから考えてもしょうがないよね」という考え方。眠っている時に記憶がないように、死んでいる時に「あ〜〜死んじゃったよぉ〜〜〜これからどうすればいいんだあぁあ〜〜〜〜〜〜〜〜」とならないので、そんなことをずっと深く深く考えていても、意味がない。そうなる前に、人生を謳歌して悔いのない道を歩もうね、という先生からの熱いメッセージなんだと。確かに考えてみればその通り。眠っている時に思考は出来ない。だったら、もっと楽しくなるようなことを考えるための時間を使おうと、この言葉をもらって少し心が軽くなった。
ここで表題に戻り、「1ヶ月後に死ぬとしたら」自分は何をするだろうか?について少し考えをまとめてみる。まず、秒速で仕事を辞めるだろう。それから、全ての貯金を持って旅に出る。とは言っても、行きたい場所、やりたいことなんて特にないのだけれど、とりあえず今までお世話になった人たちに最後の挨拶回りは絶対にしたい。もちろん1ヶ月後に死ぬなんて言わず、笑顔で最高の思い出を作る。それから、毎日食べきれないほどの料理を頼んで、腹がちぎれるくらいいっぱいおいしいものを食べ、両親を最高級のスイートルームに宿泊させて、自分が生きた日記を細かくつけたい。こんな自分でも、忘れてほしくないという思いはある。見た人の記憶にずっと残り続けるような素晴らしい文章で、自分の存在をこの世に残したい。今まであまり、人のためになるようなことはしてこなかったから、自分の葬式はすごく閑散としたものになると予想しているけれど、自分を知ってくれた人が毎年お墓参りにまで来てくれるような、そんな人望に満ち溢れた素晴らしい人間になれるように、生きていけたらなぁ。と、いうところで1ヶ月が経ち、きっと三途の川を渡るのだろう。
人生は何のためにあるのか、ゴールにたどり着く間に答えが出せたのなら、きっといい人生だったと言えるんじゃないだろうか。だって、そんな問に対する答えなんてない。その人その人で答えを出して、無理矢理でも意味のある物にしようとしなければ、人生なんてものに意味はない。太陽系の中の、小さな青い惑星で奇跡的に生まれて、少しの時間そこで過ごし、消えていく生物。偶然手にした物に、それぞれが存在理由を見出そうとして、今日も一生懸命、みんな命を輝かせている。そう考えてみれば、例えすごく運の悪いことが起こったとしても、「自分の生がなかったらこんな気分悪くもなれないよな」と、きっとプラスに考えていけるんじゃないか。人生一度きり。自分の心に正直に、やりたいことをやっていこうぜ!
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。