人は死んだら何処へ行くのか?
さて、本日は表題の通り、
死後の世界について描いていきたいと思います。
これを見てくれたということは、
みなさんも気になって気になって気になって気になって夜も眠れないはず。人類の永遠のテーマとも言えるこの議題は、考えれば考えるほど怖くなり、心臓がきゅっと縮み、死にたくない死にたくないと駄々をこねて生にしがみついていたくなります。
もし今この心の臓が止まってしまったら、自分の持っている意識、経験、記憶たちはこの世のどこへ向かうのだろうか?
きっと、ずっとずっと眠ったまんまで二度と目覚めることもなく、
今まで過ごしてきた日々も全て虚無の彼方へと消えさり、未来永劫ずーーーーーーーーーーーーーっとそのまま。
…と、思ってませんか?
実は僕は、こんな絶望的な予測はしていない派なんです。
というのも、自分が死んだその後も、また再びこの世に産まれる可能性があるという決定的な事実に気付いてしまったのです。それは…
「確かに自分がこの世界に存在している」という事実です。
今回は死後の世界がテーマなので、「自分」というものが確かに存在するのか?などという哲学的な話は扱いません。
確かに自分がこの世界に存在していたら、また生まれてくる可能性が高い…?ドウイウコト?
これは単純に文字通り、あなたは昔人間として生まれてきたよね?であるのならば、あなたが死んでも、また「生まれてくる」という
可能性はほんの少しでもあるよね?と言っているということです。
「はぁ?ちょっと待てよ!確かに生まれてくるかもしれないけれど、
それは今の自分じゃあない。新たに人生をやり直したい訳じゃないよ!」
確かにその通りです。
新たに生まれてくる自分は今いる自分ではなく、新しく作られる自分。
ですがそう考えることで、人生は二度と目覚めることもない真っ暗闇に向かっていると信じて生きるより、希望が湧いてきませんか?
人間は死んだら何処へ向かうのかは分からない、科学で解明されていないからこそ、そういう確証のない妄想話を垂れ流すことができるわけです。
絶望を持って嫌な気持ちのまま死を迎えるより、希望をもってその「時」を待ちたい。
僕は他の誰よりも「死」が怖いからこそ、若いうちから心の整理整頓をして準備をしようと思っています。
死恐怖症・・・別名タナトフォビアと呼ばれている病気をみなさんはご存じでしょうか?
いずれ自分の意識が途切れてしまうことに多大な恐怖を感じてしまう心の病気です。
この症状を持つ人は、何をするにも
「どうせ死ぬんだから何をやっても無意味だ」と全てが億劫になってしまい、生きる気力が湧かず、思う存分人生を謳歌することを諦めてしまいます。恐らく僕は、若干ではありますがこの傾向がある人間です。
幼いころ、親と電車に乗っている時にふと、
「もしここで脱線事故が起こって死んだとしたら、自分は何処へ行くんだろう?もしかして、もう二度と目覚めることはない?」と真理にたどり着き、過呼吸になったのを今でも覚えています。
それから定期的にそんなようなことを考えてしまい、宇宙の終焉を想っては心臓が痛くなって…の繰り返し。
誰にも相談できない、どうあがいても逃れることが出来ない未来に打ちひしがれていました。
ですが僕は、恐怖におびえるよりも先に、まずやるべきことが目の前にあるということを思い出しました。
それを全て片付けてから悩みまくればいい。時間が経てば経つほど、そう考えられるようになりました。
恐らく社会は、そういう恐怖を麻痺させるために僕たちに役割を与えてるのではないでしょうか。
たいていの人間はその役割を全うすることで、無意識に「死」というものを遠ざけて心を守っているのだと思います。
ここで言う役割というのは、社会から見た皆さんの今いる立場のことです。
学校へ行っているのだったら「学生」、
お子さんがいる方だったら「親」、
仕事をしている人は「会社員」「アルバイト」
…みんなそれぞれやらなければならない役割に追われ、そんなことを考えている暇などない…。
もしかしたら死がものすごく怖く感じる人というのは、それを考えるだけの心の余裕があるということなのかもしれませんね。
だから、あなたが今抱えている「死」への恐怖。
あなたの苦しみがわからないのにこんなことを言うのはおこがましさ全開ですが、
必ずいつか時間が解決してくれます。
今は苦しくても、徒に過ぎていく時の中で、価値観が切り替わるタイミングは必ず訪れます。
それは自分の祖父や祖母の死を目の前で見た時かもしれませんし、突然目の前で人が事故に会い、息を引き取るのを見てしまった時かもしれません。
身内でも赤の他人でも、「人はいつ死ぬかが分からない」と
本当に理解した時、あなたは自分の背中に羽が生えていたことに気付けるのだと思います。
参考までに、僕の価値観が変わった瞬間を幾つかお教えして、
今回は終わりたいと思います。
それは、YOUTUBEに上がっていた一つの動画でした。
タイトルは「彼女は安楽死を選んだ」です。
この動画は、元はNHKで放送されていた安楽死についてのドキュメンタリーなので、細かく言うと違法視聴になってしまうのですが、
「死」についてを取り扱っている番組は世の中には少ないので、
価値観を変えたい方は一見の価値ありだと思います。
内容を簡単に説明すると、
「多系統萎縮症を発症した女性が安楽死を選択し、
その人生の幕を下ろすまで」の一部始終を取材したノンフィクション。
多系統萎縮症とは、全身の筋肉が徐々にこわばり、
いずれ息をする以外は本当に何もできなくなってしまう病気です。
自分でトイレに行くことも、自分のおむつを替えてくれた人に「ありがとう」を言うことも。
その屈辱的な未来に絶望した彼女は、自らの尊厳を保ったまま死ぬために、安楽死を選択し、スイスでその生涯を終えます。
(日本は安楽死が認められていないため)
僕が衝撃的だったのは、彼女が自分で自分の身体に薬(眠るように意識がなくなる)を投与し、もう意識がなくなってしまう寸前、すべてを悟ったように笑っていたことです。
今までありがとうねと、泣いて寄り添う家族たちとは反面、
苦しみから抜け出せた解放感、やっと死ぬことができたという達成感を
その満面の笑みで表し、恐れることなく死の世界へと旅立っていきました。
僕はその時思いました。これが「悟る」ということなんだな、と。
僕は別に仏教徒ではありませんが、
『人生はどれだけ早く「悟り」の境地に達し、苦しみから解脱できるかで残りの人生を幸福に生きれるのかどうかが決まってくるのかもしれない』と、そこから考え始めるようになりました。
時々また恐怖に襲われるときもありますが、気楽に受け流して、いつか自分が死ぬ瞬間を想像しながら、希望を持って生き、そして死んでいきたいと思います。
それと、あともう一つお話ししたいことがありましたが、長くなってしまったので今回はここまでにしとこうかと思います。
ここまでご覧いただきまして本当にありがとうございました。
死んだあと人間は何処へ行くかなんて誰も分からない。
分からないからこそ、どうなるんだろうという期待を寄せて希望を持ちながら、それぞれの人生を生きていこうじゃありませんか。
またお互い、来世で会えるように。
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