哲学の時間(3)
今日はMTBにて山へ入る。簡単な内容は以下の通り。
・距離:約17km(17km/週) /時間:約2時間/獲得標高/約700m
ロードバイクの登りと違い、オフロードの登り - 特に大きな石がゴロゴロ転がるガレたこのあたりの山、そんな急登だ - は哲学的な思考を挟む余裕はない。フロントタイヤへの荷重、リヤタイヤのトラクションコントロールなど、対応する項目が多く、その場その場のセクションをこなすことが精一杯だったりする。
MTBに乗る時にはバイクにサイコンの類は付けず、GPSウオッチでログが取れるものを使う。カジュアルな恰好に、フラットペダル、そして走行中の数字からの解放は僕の心を自由にしてくれる。
けして否定しているわけではないが、現代の生活も、そして自転車を含めたあらゆるトレーニングも、如何に私たちが数字に縛り付けられている、または自分自身で縛ることが好きなのかと思う。
成果や進捗を感じるという点ではもちろん数値化するということはとても分かりやすい指標ではあるしかし、時として数値 - 数(かず)と言ってもいいだろう -は私たちの自由を奪うものとして、特に超短期的な目線において、成果や結果として、ひどく辛く厳しく何か独立した生き物ののように私たちを飲み込もうとする。
そんな時そうした数から解放される自由を持てるということが僕にとってのMTBというツールであると思う。サイコンも、パワーも、速度もない、フラットペダルで自由に漕ぎ出せる世界も、自転車の楽しみとして許される。
世の中がどれだけスピード感を上げ、効率性を求めても、人に与えられた時間は変わる事がなく、その中で人が動き、考え、休み、成長するのには時間がかかる。効率のいいトレーニングや時間の使い方はある。けれどそれが効率の良い成長と「=(イコール)」ではないし、むしろ人の成長はそれとは逆行するような時間軸でしか進まないように思う。行き過ぎた数値化や行き過ぎた効率化だけでは人は、その心はもたない。
人の思考には自由な速度、自由な時間、解放される喜びが必要なのだとうとつくづく思う。
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