暗夜行路の果て
ちょっとした前回の続き。
父がそれまでの考えを改めた瞬間はあの時かなと思うことがある。
3人きょうだいで末っ子が女だった場合、それは可愛がられたでしょうと言われることが多い。私の場合は歳も離れているし、なおさら。
でも私はあまり幼少期の記憶がない。可愛がられた記憶がない。
10歳になる年に父方の祖父が亡くなって、12歳の時に祖母が亡くなるまでの間、父は祖母の家と別居していた家を行ったり来たりするようになった。土日は祖母の家で泊まる。
なぜか私は父と同じ行動をしていた。祖母の家で土日は料理を作る。いつからか長兄は祖母の家に移り住んだ。別居した家より祖母の家で過ごした時間が長いので、長兄にとっての実家はここだったとあとで聞いた。その家はそのまま長兄の家になった。
12歳の、季節は忘れたけど多分土曜日。
父が祖母の家に帰ってきた。ガラガラと玄関の引き戸を開けて閉じて、居間に入ってくるなり抱きしめられた。スキンシップは全くしない父だったので恐れ慄き「どうしたの?」と泣き出す12歳。なにか恐ろしいことが起きたのだと思った。「ごめんなあ」と言われた。父はどうして知っていたのか、私の好きなケーキを買ってきていた。
多分、私はこのとき存在を許された。
なにがごめんなのか。なぜ私が父に付き合って祖母の家で手伝いしていたか、自分でもわからない。頼まれてはいない。自分から進んで、それをやっていたと思う。
それなりに祖母と父と長兄と過ごした時間は楽しかった。母が病んだ原因が祖母だったことは、祖母の死後に理解した。
そう。楽しかった。忘れていた。あまり祖父母のことは悪く言ってはいけないのかもしれない。いまさら2人を責めても、私も母を苦しめていた事実は消えない。
その後、17歳から母を避けてこの家で長兄と数年過ごした。長兄も母から逃げたい気持ちがあったから、祖父母の家に移り住んだのだと言っていた。だから、妹がそうなっても仕方ないと味方をしてくれた。長兄には頭が上がらないのだ。
30歳前にふと思い立って祖父母の墓参りをした日「この2人は、私に葛藤を与えたかったのだろうか、そんなわけはないだろう」という考えが降って湧いてきた。
人間は愚かだ。今しか見えない。その後どうなるかを想像できない。
12歳のあの瞬間にかかった呪いがある。「私は働かないと認められない」。「父は私が役に立つから、ようやく存在を認めてくれたのではないか」
割とこの思い込みが厄介で、職場で働き者であることは認められることにつながるので、それはいいんだけど、失敗が怖いし他人の失敗も許せないことがつらい。働くことで壁にぶつかると、12歳のあの日を思い出す。
父が亡くなってから関係性を思い返しているんだけど、父に自分に起きている不条理を子供時代に話したことがない。
太ってることをからかわれたし、母が洗濯してくれないから臭いと言われてきたし。中学に上がってからは、母に靴下を細切れに切り刻まれて(座布団の具になった)困ったけど、どれもこれも父に話したことがない。
ないのは「聞いてもらえないことが怖い」がある気がする。
落ちたら最後のような気持ちで生きてきた、気がする。薄氷の上を常に歩いている。
「親が目の前にいるのに頼れない子供時代って不幸だなあ」と他人事のように書いてるけど、これも乖離症状なんじゃないかという気もしている。
私は私の身に起きていることを他人事と思うことで、厄介な家庭環境をサバイブしてきたのではないか。12歳以前の家族の思い出があまりない。
もう少し自分を理解して労わらなくてはいけないのではないかと、ふと考える時間が増えてきた。
両親が亡くなって、なにか上がった気がしているけど、これからの私は、歩み切れていない私の人生を見つめていかないといけない。そんな気がしている。もうじき父の一周忌。去年の今ごろの父は、まだあの病院ベッドの上で目を開けたり閉じたりしていた。
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