暗夜行路
それは多分、小学生に上がってからしばらく。父は酔うと志賀直哉の「暗夜行路」の話をした。父が小学生の時に近所にお金持ちの同級生がいて、そのお家でたくさん本を読んだと言っていた。
その中の「暗夜行路」が衝撃的だったのだという。主人公には出生の秘密があった。祖父と母の間に生まれた子供だった。
私は何故かこの話をずっと聞いていた。中学校のときに読んでみようとチャレンジしたけど、難しくて頭に入って来なかった。私はあまり賢くない。中学に上がるころには、父はその話をしなくなっていた。
そんなことはすっかり忘れたころ、10年前に母が亡くなった。
母の三回忌に、父方の叔父が不穏なことを言う。「ババが、お前の母さんと俺の仲を疑ったから(嫁姑問題が起きて母のメンタルが壊れた)」
※ババ=祖母のこと。故郷の方言。イントネーションはパパと同じ。BBAとは違う。
ヘラヘラ笑ってそんなことを言う。当時70歳ぐらいの、父から毒を抜いたような、「一見」穏やかそうに見える叔父。さらに、父に向かって「お前は親に感謝が足りない」。
私は怒った。「父さんがいなかったら、この家はみんなバラバラだ!」。上手く言えなかったけど、そんなようなことを言いたかった。
叔父はバツイチで最初の子供は、1人は養子に出し行方不明、1人は借金をこさえ立て替えて勘当。再婚後の息子も見事な子供部屋おじさん。叔母の長男はアルコール依存症をこじらせて早逝。
こんな具合なのに、父は弟妹を見限ることはなかったのだ。この叔父はどういう神経をしているのか。
父は妻を苦しめた肉親を捨てて良かったのだ。でも出来なかったから、自転車で5分ぐらいの距離で別居した(そして私が生まれる)。
それからしばらくしてふと思い出す。暗夜行路。
あれ、まさか。父は父で、母と祖父の関係を疑っていたのだろうか。私の父親は祖父?
暗夜行路のほかにも私は「おばけ」と言われていた。40歳過ぎてからの子供だったから。今は割と普通の範疇になったけど、45年前は「恥かきっ子」という言葉があった。
家族計画の失敗とか、40歳過ぎてるのにとか、その辺の照れ隠しだと思っていたけど「子どもが出来るような心当たりがないから」、という視点はなかった。
でもさー。祖父は私が10歳の時に、80歳で亡くなっているので…。70歳のときに?え、どこの海外セレブ?
コロナが明けたら、冗談めかして父に聞いてみようと思っていたことの一つ。
父が亡くなってしばらく経ったころ、私は思い立って父が使っている櫛を探した。かなり薄くなった頭だけど、なけなしの毛髪を梳っていたあとがそこにはあって、櫛の目にからみついた毛の何本かを抜き取った。
もう少し落ち着いたら、勇気が出たらDNA鑑定をするかもしれない。もしかしたら、勇気は一生出ないかもしれない。それはそれでいいよね? 父さん。
だがしかし。
そうやって疑われてしまった母はどんな人だったのだろう。夫も夫の家族も自分の貞操観念を疑ってるなんて、そりゃ病むわ。
知らなくてもいいこと、なのかもしれない。勇気を出すことは、母を疑う側に回ってしまうことになる。
母や祖父が不実な人だとは思えない。だって私の身内だ。そんな恥ずかしい人なわけがない。そんな大胆な人と思えない。むしろ臆病だろう。そんなドラマみたいなことがやすやすとあってたまるか。
こんなに叔父が生理的に無理なのに、母が叔父をそんな対象に見ただろうか?
答えは出ない。出せない。暗夜行路。