ケンカの後に「ごめんなさい」は必要か?
「ぎゃー!!」
1歳になったばかりの長男の泣き声が急に聞こえました。島牧村にある「つがいの家」に泊まりにきた4歳の男の子に遊んでいたときに腕を引っ張られた様子。男の子の長男への攻撃は昨夜から数えて何度目だろう。彼の両親も都度、説教をして「ごめんなさいしてきなさい」と促し、言いにくるのだが、でもまたやる。しかし今回ばかりは姉が黙っていませんでした。両親に注意されて拗ねた様子で娘と遊ぼうとして近づいた男の子に対して
「来ないで!」
とピシャリ。
それでもちょっかいをかけようとするその子に対し、バシッ!と攻撃。叩かれても(叩かれたからこそ?)ちょっかいをかける男の子。なぜ男子は嫌がられているのに手を出すのか。そのうちに取っ組み合いのケンカに発展。少し戸惑いの表情を見せる男の子の両親に対し、
「少し見守ってみよう」
と提案してみました。返事はなかったものの、同意してくれたように思います。
倒れたり押されたりした際に怪我だけしないように、周囲のおもちゃをどかしたり、テーブルやソファーの角を抑えたり、急所攻撃など本当に危険な行為をしないように、プロレスのレフェリーになったかのように最も近くで見守ってみました。本気で相手の目を見て攻撃を繰り出す娘。しばしばお母さんの顔を伺う男の子。助けを求めている様子ではない。
格闘は10分近く続いたでしょうか。最後は馬乗りになって攻撃を加えていた娘が泣き出して終了しました。後半、男の子はただただ娘の制裁に耐えていたように見えました。泣き出した娘は抱きつきにきて大泣き。男の子の方は何食わぬ顔でおもちゃコーナーへ。男の子のお母さんがまた「ごめんなさいは?」と言いそうだったのでそれを制すように、
「平静を装っているけど、心中穏やかじゃないと思うよ」
と穏やかに声をかけました。
「これだけ本気で誰かにぶつかられたのは初めてかもしれない」
男の子のお母さんは言う。
本気でぶつかれる相手がいるというのは重要なことだと思います。昔のクサい青春ドラマじゃないけど、本気でぶつかったからこそ生まれる絆や信頼というものがある。僕ら大人が人とのぶつかり合いを極力避けさせるから、感情の吐き出し方、ケンカの仕方をわからないまま大人になってしまうのではないでしょうか。
もう少し見守ってみよう。と提案しようとしたら、
「ごめんさい言った?」
と男の子のお母さんに先に言われてしまったのでした。
「いいよ、いいよ。わかってると思うから。言わせなくていいよ」
僕も妻も強制はしないようにお願いしました。男の子はわかっている。それは態度に現れている。そんな確信があったのです。
「はい、どうぞ」
男の子はおもちゃをようやく泣き止んだばかりの娘のところへと持ってきました。おお、動いた。一同固唾をのんで見守りました。
「許してあげる?」
妻が娘に尋ねる。娘は首を横に振る。
すると男の子は別なおもちゃを持ってやってきました。そしてそれを渡すとまたおもちゃコーナーから違うおもちゃを持ってやってくる。3度目で娘の表情に笑みがこぼれる。もう一度慈が尋ねると、今度を小さく首を縦に振ったのでした。
子ども同士のコミュニケーションで「ごめんなさい」は果たして必要だったのでしょうか。親に言わされた心のこもっていない「ごめんなさい」よりも、心からの反省による行動の方がお互い重要なのではないか。子どものコミュニケーションは大人の常識では測れません。
納得していないのに「ごめんなさい」させられるのもフラストレーションたまるだろうし、言われた方も心がこもっていない「ごめんなさい」をされても許す気にならないのではないだろうか。それすらも親の「許してあげなさい」という強制力が働いてしまうともはや子どもの意思はどこに?と思ってしまいます。
「ごめんなさい」させたいのも、謝ったら許してあげさせたいのも、結局は親のエゴであって、親同士のコミュニケーションのための生贄なのではないか。子どものケンカは子ども同士の問題で、叩いたり泣かしたりするのを見て気まずいのは親同士の問題。そのセパレートがなかなか難しい。しかし、それが子どもの意思を尊重すること、子どもを一人の人格として認めて敬意を払うことなんだ、と思います。
実際、当の子どもたちと言えば、
「また遊ぼうね!」
「うん」
と言った具合にケロリと仲直りしていました。
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