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劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン

2度の公開延期を経てやっと公開された、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン。公開初日の朝イチの回で鑑賞したが、同じく公開を待ちわびていた人が多く、平日とは思えないほどだった。

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まさか開始5分も経たないうちに涙が出るとは思わなかった。アニメからのファンなら誰しもが知っている、あの感動の10話だ。欲を言えば、母親からアンへの他の手紙の内容も聞きたかったなあ、なんて。

私が開始早々に泣いた理由は二つある。一つはアニメのあの名シーンを大きなスクリーンで観れたこと。そしてもう一つはアンの死である。

アンの屋敷であることはすぐにわかった。しかし、そこにいるのはアンではない。アンの孫、デイジーだった。デイジー・マグノリア、苗字も名前も花の名前素敵じゃないか。ああ、アンはきっと幸せに暮らしたんだろうな、お母さんよりも長生きして孫とも一緒に過ごせたんだと思った。

だが、アンはヴァイオレットよりも年下。写真でみる姿によればかなり長生きしたようだ。ということは、この時間軸ではもうこの世にヴァイオレットがいない可能性がある。自動手記人形はもういないというデイジーの父の言葉。たとえヴァイオレットは生きていたとしても、郵便社のほとんどの社員は亡くなっているかもしれないし、ローランドさんなんてほぼ確実にいない。たった数秒の間にここまで考え、悲しくなったのである。

そこから時をさかのぼり、始まるヴァイオレットの物語。実在しないのに、まるで実在したかのように思えてしまう。アニメと外伝、そして今回の劇場版と合わせて、描かれたのは10年にも満たないヴァイオレットの人生のほんの一部であることにあとで気づき、驚いた。ギルベルトと出会ってからの数年間で彼女の人生は大きく変わった。もしギルベルトに出会っていなければ、ただの道具のまま、言葉も感情も、「あいしてる」も知らないまま死んでいただろう。

映画を観て思うことは、どんな人と出会うかで人生は大きく違うものになるということだ。ヴァイオレットとギルベルトのように。

そして、ヴァイオレット自身も周りを大きく変えている。自動手記人形として働くヴァイオレットを見てディートフリートも変わった。エリカは脚本家としての一歩を踏み出した。アニメ本編で言えば、シャルロッテ姫は幸せな結婚をし、リオンは本当にやりたいことをやる決心をし、ルクリアは兄との仲を取り戻した。誰かが「自分が変われば周りも変わる」と言っていたが、ヴァイオレットの場合は特に意図せず影響を与えてきた。

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劇場版は盛りだくさんのストーリーだと思う。ヴァイオレットの思い、ディートフリートの心の変化、ユリスとリュカの友情、そして手紙と電話。

メールやチャットアプリが普及した今、手紙はなおさら減った。日本には年賀状という文化があるが、私の周りでは出さなくなる人も多い。郵便配達はあれど、届くのは会員登録したところからのダイレクトメールや公的機関からの書類ばかり。もうすでにこういうものが郵便受けに入っている我が家は珍しい方なのかもしれない。

手紙を書くということが忘れ去られそうになっている今こそ、この映画を観たい。手紙でしか伝えられないもの、電話でしかできないものがあるということを教えてくれる。

手紙は面と向かっては言いにくい素直な気持ちを伝えてくれる。アンが箱に入れて大事にしていたように、紙と文字によってずっと手元に残る。電話はつなげればすぐに声で相手に気持ちを届けられる。カトレアがアイリスに言っていたように、顔は見えずとも声で感情が伝わる。病床のユリスのように、話すことさえできれば遠くにいる相手とも話ができる。

より便利に、より簡単に、よりスピーディーに変化していく現代。だからこそ、あえて手紙を書いてみたい。ヴァイオレットような自動手記人形はいない。タイプライターもない。自分の言葉と、自分の文字で、自分の素直な気持ちを伝えたいと思う。

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