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【鬱日記】毒親育ち


近況

鬱になってしまった…
4、5、6月上旬まではすごい元気に勉強をしていて、自習室に最初に行き、1番最後に出るという毎日で、隙間時間も欠かさず勉強できていた。(予備校代は親からの前借り)
途中途中でパンチを喰らう場面もあったが、2、3日後には認識の立て直しを行い、元気に生きられていた。(途中、5/25にシスター鈴木秀子の講演会にも参加)
(←躁なのではという指摘があったが、全く自分としてはそんなふうに思っていなかったが、あとからツイートを見返すと確かに………)

6/9共通テスト模試があり、6/10朝にはもう動けなくなっていた。
予備校に行こうと思うのだが朝がまず立ち上がれず、這いつくばって昼に用意をして予備校に行くが、塾の最寄り駅に着いた時たちすくんで、トイレでメソメソする生活になってしまった。一日中布団で安住する日も続いた。友達が連れ出してくれて励ましてくれたがどうにもならず…
自分が自分の人格として必要とされていない気持ちに苛まれて、何もする気が起きず、少し行く用意をしては、力が出ず、そこで座り込んでしまうという感じなっていた。家に帰りたくなく、夜は散歩をしたりベンチに座り込んでぼーーっとすることを繰り返した。とにかく涙が出てくるのでどうにもならず…

いきなりこんな風に鬱になってしまう。
自分で制御できたり予知したり回避できない。抵抗のできない鬱が、自分に降りかかってきてしまう。
幸福は自分の認識なんだから、この先、生きていって、例え外部から幸せと思われる現象が与えられたとしても、この鬱が来てしまう、そして愛着障害の自分はそれを幸福とも感じられないならば、私は幸福になれないじゃないか。辛い。どんな努力をしても、報われない。おかしい、私はこんなに耐えているのに、社会はこの適応の努力を認めない、判らない。こんな風に思う自分も嫌だ。おそらく普通の人がこれを読んだら嘲笑するだろう。
「ないものねだり」「分相応」という言葉と共に。。
中学高校の時も躁鬱で不登校になったり(まして高3は完全不登校)、予備校も不登校になってしまう、努力しても社会不適合者。

愛着障害者のさだめ

わたしは親に愛されなかった。(いや愛してくれていたのかも知れない、と自動的に思ってしまう、それは私の必死の「良心」の抵抗である。)
受け手の問題だから、それを愛と認識できなかった私が悪いのかも知れない。少なくとも父親は私にそう言った。
親は、私が子どもの時、子供として当然の要求を認めなかった。とにかく殴られた。というか「死ね!」と毎日言われた。(親は忘れているけど) 認めないばかりか、母親は私に心理的な親代わりをさせた。自身の母親の愚痴を言ったり、姑の愚痴、私の愚痴、「私の人生の邪魔をしないで、死ねばいいのに、なんで生まれてきたの?」
わたしは愛されたかった。親の子供の理想像を自分に内面化した。
私は親が嫌いなのかも知れない。
でも親を憎む子供は親の子供の理想像に反していた。
本当の自然なわたしの気持ちは一体どこにあるのだろう。
すべての感情がなんらかに強制されて出てきたものに感じる。
嫌いな親に愛される必要があるのか?
私は誰かに愛される価値のある人間になれていない。
努力していない人は誰かから愛されていいのか、いやダメだと思うから、努力してない人間が努力してないまま認められているのを見ると吐き気がする。
だからわたしは幼児が嫌いだ。
ああ親になってはいけないなわたしは。
愛されなかった人間は愛されている人間と比べられるその不公平を許し、受け入れなさいと強要される。

わたしは本来発生すべきだった人間らしい黒い気持ちを認める必要があるのかもしれない。嫌いなものを嫌いということ。私は何かに対して「嫌い」ということを思わないようにしているし、まして口に出したりすると、自分のことが醜いバケモノに見えてくる。
何かを嫌ってもいいのかな、
私には最低な友達がいるが、自ら接近してしまう。その人を嫌ってはならないと思うからだ。これを周囲の人間は「優しい」という分類していたが、そうではないと私は思う。どう考えても最低なんだが、でもなあ、受け手の問題だから、私の認識が間違ってるんだと思う。

私は愛が枯渇した、ガソリンが切れてパンクしたぼろぼろの車だと思うがそれでも社会で生きている人間だから社会に適応しないといけない。
いつも馬鹿にされている感覚がものすごいあって、周囲の目線がこわくてたまらない。私の間違いやミスや気持ちの悪いところを一挙手一投足監視され採点され嘲笑に晒されていると常に感じて生きている。だから教室が怖い、電車が怖い。

私は愛されて育った人間が羨ましくてたまらない。
人間の幸福の原点は情緒的に成熟した親を持つことである。
それが不可能だった場合、その人は一生それを求め続けるし、思考がとんでもなく歪んでいて幸せになれないし、社会では満たされた人間と比較されて生きなければならない。そして、だれにもこの深い喪失と鬱、そしてそれを克服する努力は理解してもらえない。
この文章を見せて、わかる人がいるか??わからないでしょう。
それだけのものを抱えて生きているのに。ないものねだりだ、仕方ないのだ、とそれでもあなたは言いますか。言えますか。
悔しい、悔しい悔しくて堪らない
小さいことに感謝を向けろと言っても、それを受け入れることから始まるのだと言っても、お前に何がわかる。自分自身でも躁の時はわからないのに。
いや躁の時は無視している、感じないようにしている、考えないようにしている。
親に愛されて育った人間は、普通だ。普通ができる。
彼らはガソリンが入った車で、鬱にもならず、その克服の必要さえないために社会的な努力が努力として報われ、他人からの目線に悩むことが少なく、何より人生は常に辛いという感覚がない。そして鬱人がどう足掻いてもできない経験ができる。
彼らは幸福が保障されている。

私のほんとうの姿は、まだあの日のブランコで泣いていてた頃のままだ。いじめられたときのあの日の時のままだ。
感傷に浸っているとか、そこに身を置き過去に自分を釘付けにしているのは自分自身の判断だ、とかではないんですよ。
そしてその時に解決されなかった哀しみが鬱のすがたとなって私に立ち現れている。
私は毒親育ちの鬱人だ。
親に愛されて育った人間とは絶対に分かり合えない。こちらはあちらを理解できても、あちらはこちらを理解できない。
この途轍もない不公平を愛された人間に力づくで許せと強要され、こちら側はなんら理解されず、この命終わるまで生きていかないといけない。死ぬことさえ勝手だと言われる。
この理不尽さに耐え、私は幸福になれないのに、他人の幸福を願い生きていかなくてはならない。

私は、できる努力をしている。他人にそう見えなくても、私にはこれが限界です。


ただ一つ、時間はかかるがこれを克服する方法があることは知っている。
積極的に自ら進んでその不公平を認め、非鬱人以上に努力をして社会的にも情緒的にも成熟し心から笑顔でいられる人になることだ。そしてこれは毒親育ちしかなることのできない人間だ。


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