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P#1 しおれてもタンポポ 1787

青い空に銃声が鳴り響く。その音に驚いた鳥たちがいっせいに飛び立った。

男たちは今日も狩りを楽しみ、女や子どもたちはピクニックをしながら彼らの帰りを待つ。

使用人たちは、常に気配りに忙しい。主人たちの次の動きを予想して動かなければならないからだ。存在感をかき消しながら仕える彼らの仕事は、もはや熟練の技と言える。まるですべてがデジャヴとでも言うかのように、彼らの動きはいつだって滑らかで優雅でさえある。

屋敷は、美しく整えられた広大な敷地の中に建っていた。この場所でずっと、歴代の主人たちの暮らしを静かに見守ってきたのだ。

遠くピクニックの一同から離れたところで、下を向いて座りこんでいるのは末っ子のパムだ。

空色の美しいドレスの裾は、どこでつけてきたのか、砂埃で茶色くなっている。パムの小さな左手には小さなタンポポが二、三本。大切に握りしめすぎて、タンポポたちはぐにゃっとその頭をさげていた。

タンポポからタンポポへと、その花を摘んでは移動をしているうちに、パムの小さな右手はタンポポの茎からでる乳液でべとべとになっていた。それに反してさらりとした春の風はそよそよとパムの頬をかすめながら通り抜けていく。

一本のタンポポを摘み取ろうとしていたその時、パムは少し離れた別のタンポポに赤いてんとう虫がいるのを見つけた。

パムの存在に動じることなく、てんとう虫は黄色のタンポポの上で小さく動き回る。それはまるで黄色のキャンバスに、誤って一滴の赤いインクをたらしてしまったかのようだ。

パムは息をするのも忘れて、てんとう虫の様子をじっと観察していた。

タンポポの花びらという小さな舞台は、そのてんとう虫にとって世界のすべてだ。パムはタンポポの花びらと同じ高さに自分の指を持って行くと、てんとう虫がそれに気づくのを息をひそめてじっと待った。小さく動きまわるてんとう虫は、やがてパムの指に気付き、まるでそこに導かれるかのように、ちょこちょこと可愛らしく前に進んでいった。

てんとう虫は、パムの指から手の甲、腕へと移動していく。あまりのくすぐったさにパムは思わず笑いそうになったが必死にこらえた。てんとう虫の小さな歩みにパムは命を感じた。

手の中であっちへ行き、こっちへ行きと自由に動き回るてんとう虫をしばらく観察した後、パムはそっと立ち上がった。足元には、すっかり精気を失ったかのように、タンポポが三,四本散り散りに放置されている。

しかし、パムの努力むなしく、小さなてんとう虫はまるで急用を思い出したかのように、大きな空へと消えていった。パムがあっと叫ぶ暇さえあたえずに。

肩を落としながらピクニックの輪の方へと戻ってきたパムに、姉のエレンがどうしたのかと尋ねる。

「リエベンに見せたかったのに。」

とパムはむくれながら答えた。エレンが微笑んで、遠くのタンポポを指さす。

「ほら、お花をあげればいいわ。パムが上手に説明すれば、リエベンの頭の中でタンポポの上をてんとう虫が動き出すわよ。さあ、そろそろ帰るみたいだから、今のうちにもう少しタンポポを摘んでおいで。」

エレンにそうさとされて、気を取り直したパムは、再びタンポポを摘んで歩いて回った。

温かい春の日差しも午後三時過ぎにもなると、少しずつ冷たくなってくる。みなが帰り支度を始めていた。

パムの両手にはたくさんのタンポポ。そのすべてがぐにゃりとこうべを垂れているが、パムはリエベンへのお土産ができたことで大満足の様子だ。

森に帰っていく鳥たちが、頭の上をゆっくりと飛んで行った。

タンポポを右手に持ったり左に持ったり、はたまた腕を大きく広げてみたりと、自分の影を見ては、パムは暖かい夕陽を小さな背中いっぱいに感じていた。

屋敷に到着し、馬車からご機嫌に降りたパムを見て、使用人のサラは口に手を当てて驚いた。ドレスの裾の汚れに加え、パムがタンポポを摘んでは拭いたであろう形跡が、あちこちに見て取れたからだ。

パムがドレスを汚して帰宅するのは毎度のことだが、その手にいっぱいのタンポポをみて、茶色い汚れの原因が何かわかると、サラは洗濯をする使用人たちに深く同情した。スキップして屋敷に入ろうとするパムを、サラは両手で優しく制した。

「パムお嬢様。こちらでいったん汚れを払いましょう。」

そう言うと、サラは別の使用人ハンナに命じて、ブラシでパムのドレスの裾の汚れを落とさせた。ブラシが上から下へと動くたびに、パムの体も大きく上下に揺れている。

さっきまで夕陽を感じていた背中が、今は自分のものではない気すらする。パムは空に向かって飛んで行ったてんとう虫の気持ちがなんとなくわかった。サラに手を引っ張られながら進む自分は、まるでてのひらで右往左往していたてんとう虫のようだと思った。

「パムお嬢様。タンポポは花びんにさしたところで元気になるとは思えません。どうしますか?」

そう厳しく言い放ったサラを、パムは下からじっと見つめながら言った。

「リエベンにあげようと思って摘んできたの。」

「あら、そうだったのですね・・・。それではわたしが後でリエベンに届けておきますから。さぁさぁ。」

パムからサラに渡されたタンポポは、すっかりタンポポらしさを失っていた。黄色の花弁はところどころが灰色に変色し、茎は地面で誇らしく花を咲かせていた時の半分以下の細さでやっとの思いで花びらとくっついているようだ。

サラはハンナに、パムを部屋に連れていくよう伝えた。

パムたちが廊下の奥に消えていくのを見て、サラは大きなため息をついた。

さあ、このタンポポをどうしようか―

もはやタンポポとは名ばかりのそれらを持って地下へと急ぐ。とりあえずリエベンに渡さなければ、小さなパムを裏切ったことになるし、パムがリエベンを誰よりも信頼していることはサラが一番よく知っていた。

サラは暗い階段を、スカートの裾を持ち上げてそそくさと降りた。使用人たちは夕食の準備やら、三人のお嬢様たちの入浴の準備でバタバタと忙しい。厨房からは、時間に追われる料理人たちの大きな声が聞こえてくる。屋敷中が一日のなかでももっとも忙しい夕時だ。

サラは調理室で食器の準備をしていたルークを捕まえると、リエベンの居場所を尋ねた。

「リエベンならさっき一度戻ってきて、馬車の整備をするって言ってました。」
 
そうか、明日からご主人様はしばらくお留守にされるのだったわ―

サラはそう独り言を言って、暗い階段を一段、また一段と上っては息を切らせた。ゆっくりと上りきると、窓から柔らかく差し込む春の夕陽に片眼を閉じた。裏口に回り、リエベンがいるであろう車庫へと急ぐ。

かつて、同じようなことがあったときに、パムには気づかれまいと、花を捨ててしまったことがあった。リエベンはパムにとって唯一の友達だ。リエベンが喜ぶ顔を想像するのが楽しいの、と目を輝かせて話すパムを思い出して、サラは今一度申し訳なく思った。

早く届けようー

サラは急いでリエベンを探した。春の夕陽はどこまでも柔らかく優しかった。

つづく・・・

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