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「豊かさ」のいろいろ
先日「豊かさ」について記事を書きましたが、ちょっと深堀りしてみたくなり、いろいろ「豊かさ」について語っているものを思いつくまま集めてみました。
豊かさって、「満ち足りて不足のないさま、十分で余りあるさま」を言い表すもので、「何が」満ち足りているのかについては暗黙的に理解されることが多い言葉。だから、それぞれで語られている「豊かさ」について、その意味するところがまちまちになって、ある人は経済成長という幻想が生んだ貧困の相対だと批判し、つまりは消費の大きさであるとしている。一方で、豊かさには種類があるのだと分類する人もいれば、より普遍的な自然の恵みという文脈で使われることもある。ここに注意を払わなければ話は平行線をたどるし、ここを深く理解すればより話を前進させることもできる。
そこで、自分にとっての「豊かさ」の定義ってなんだろう、って前回の記事を書いたのだけれど、改めていろんな人の「豊かさ」についてみていたら、内容がどれも面白いものだったので、引用と感想をnoteに記録。(スミマセン。最近noteがメモ記録みたくなってる。。。)
経済発展のもたらす「豊かさ」への批判(ダグラス・ラミス)
ダグラス・ラミス氏は経済発展とは「イデオロギー」であると断言する。この表現は秀逸ですね。経済発展をイデオロギーであると明確に主張する人はあまりいませんよね。
私は経済発展を「イデオロギー」と呼んでいますが、これはイデオロギーではないという人が多いのではないでしょうか。… 経済発展のイデオロギーのイデオロギー性は、不透明で見えにくい。
経済発展のイデオロギーのイデオロギー性、、、いいですね、この表現。つまり非常にうまく(それとわからないほどに)世の中に浸透しているということですね。
数年前からグローバリゼーションという言葉が流行っていますが、グローバリゼーションというのは新しい現象ではなくて、植民地主義も、帝国主義もグローバリゼーションだった。ただ、植民地主義、帝国主義の時代には、ある意味ではもう少し今よりも正直な側面があったと思います。つまり、これは搾取であるということを、みんなが意識していた。貧乏な国を搾取して豊かになるということは、大体の人が分かっていた。
経済発展とは「スラムの世界」を「高層ビルの世界」へと少しずつ変身させる過程だというのは錯覚であって、ごまかしです。経済発展の過程によって、昔あったさまざまな社会が「高層ビルとスラムの世界」になってきたのが、20世紀の歴史的事実なのです。
ここでは経済発展のイデオロギーによって生まれた貧困の相対として「豊かさ」という言葉を使っているようにみえます。その上で、スラムというものはそもそもなくって、もともと多様であった社会を経済による未発展(=野蛮)な国と、発展(=成熟)した国とに分類し、野蛮な国を成就した国へと発展させていくことが世界を豊かにする道だという作られたイデオロギーなのだと批判しているのです。
現代経済学者と仏教経済学者の比較(シューマッハー)
シューマッハー氏も上記と似て経済的には「豊かさ」は消費の大小によって定義される相対であるとみている。一方で、仏教経済学者の視点を例に、ここでいう消費は幸福を得るひとつの手段でしかない点を指摘する。彼の主張は、豊かさにはその分野や見る視点によって異なる定義が存在していることを示していますね。
現代経済学者には、これが非常に理解し難い。生活水準をはかる場合、多く消費する人が消費の少ないひとより「豊かである」という前提にたって年間消費量を尺度にするのが常だからである。仏教経済学者に言わせれば、この方法は大変不合理である。そのわけは、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福をえることだからである。
…
モノの所有と消費とは、目的を達成するための手段である。仏教経済学は、一定の目的をいかにして最小限の手段で達成するかについて、組織的に研究するものである。
次のガンジー主義の言及が、底辺の潤沢さの底上げといった表現を示唆しているようにも思えて目に留まった。ので、これも載せておこう。
インドの新政権には、ガンジー主義の色合いがあると聞いている。ガンジー主義の核心は、開発は主として「下から」、村から来るのであって、「上から」、中央政府や州政府からではないとする考えである。私はこれが正しいと思う。
…
経済成長は、それ自体では、良い事でも悪い事でもない。何が成長しており、何が排除されたり破壊されているかの問題なのである。
労働の対立概念を考える(内田樹)
直接的に「豊かさ」の定義には触れていないけれども、興味深い一文を見つけたので紹介します。労働の対立概念が「消費」である、という主張が鋭く光ってます。
労働の対立概念はなんでしょう。…僕の答えを申し上げます。「消費」です。
そういう風に消費だけでやってこれたのは、自然環境からの圧倒的な贈与があったからです。その中にあって、人間だけが労働をした。… 人間の消費する量が自然からの贈与分を超えたからです。
労働の本質は自然の恵みを人為によって制御することです。労働の本質は「生産」ではなく「制御」です。人間にとって有用な資源を「豊かにすること」ではなく、それらの資源の生産・流通を「管理すること」です。
人間は生産することに疲れるのではなく、制御されることに疲れるのです。
するとここで定義される豊かさとは、自然から享受される贈与が「潤沢である」ことという風に読み取れますね。このようにあるがままに圧倒的に充足していた贈与を、経済発展によって消費が上回ってしまった。豊かな生活を維持安定させるために、労働によってそれが制御されるようになったと。。
その結果、、、
人間が労働を始めたのは、衣食住の資源を「豊かに」享受するためではありません。「安定的に」享受するためです。たから、… 現代の生産構造では、「無から有」を作り出すような労働をする人々が最下層に格付けされ、何も作らず、ただ「ありもの」を右へやったり左へやったりするだけの人が最上位に格付けされている。そういうことです。
技術の落とし子(シューマッハー)
このような理解をもって改めてシューマッハー氏の主張を読み返してみると、いろんなことが示唆に富んでいたのだと思い至る。。。自然からの恵みを経済発展による大都市化に向けた技術によって恣意的に成長を続けてきたのだから、既に今日の社会を構成する技術にわれわれは依存し続けている。
技術の変化が政治的結果をもたらすことを否定する人はまずいまい。ところが、現在の制度が最も広い意味で技術の落とし子であり、技術を変えない限り大きく変えられない点を理解している人は少ない。
単に脱炭素だといった目先の技術のことを言っているわけではないですね。問題を上塗りするための技術でもない。技術の問題をさらなる技術によって乗り越えようという短絡的な考えに警笛を鳴らしている。飢えを解消するために高度の機械化、化学肥料、殺虫剤などを利用する工業型の農業経営に頼ろうなどというのは恐ろしいほど誤っている。
例えば現代の食料は経済的にはむしろ石油を食べているに等しい。そのような基盤の上にわたしたちの生活は支えられている。人が食べていくために必要な技術と、それをもとに生まれたごく基本的な技術基盤を変えない限り社会の本質は変えられない。
(大きな都市に向けられた技術を小さな場所に当てはめるには膨大なコストがかかる)この問題にたいする簡単な答えは、多くの人の頭に浮かばないようである。もっと、小さな場所にあった技術を作り出すために、我々の知的資源やそのたの資源を少しばかり動員しようではないか。
そしてこれらのグローバルな問題を解消するための今日の人類最大の課題は「自分自身の中に非暴力の力を培うことである」と続くのですが、これはまた別の機会に話そうと思う。。。
物的な豊かさを否定しない(OSHO)
さて、豊かさについて、インドの思想家はなんと言っているだろう。
人は、喜ぶために、可能なかぎり生を美しく、平和に満ちて、快適に生きるために、ここにいる。
ここでは、「豊かさ」を経済的、物質的な豊かさとして述べていて、その上で、そういった物質的豊かさをも人は否定すべきでない、と。
私は、豊かさに全面的に賛成だ。しかし、その豊かさはコミューンのものになるだろう。コミューンが豊かになるにつれ、すべての個人もより豊かになる。私は貧しさには反対だ。私は、貧しさの崇拝者ではない。私は、貧乏であることにどんな精神性も見い出さない。それは、まったく愚かだ。貧しさが精神的であるわけでもなければ、病気が精神的であるわけでもなく、飢えが精神的であるわけでもない。
宗教家や倫理活動家はよく、あらゆる物質的豊かさを制限し、禁欲的な生活を美徳としようとすることがある。でも、苦しみ、欠乏に耐えることが人間の生の美しさではないはずだ、とOSHOは言います。
そしてそれらの豊かさは個人によるものではなく、コミュニティーによるものであるべきという言葉が興味深いですね。個人の前にコミュニティーが豊かであるべきだと。それはゆくゆくはすべての個人を豊かにする。これは底辺から潤沢さを増大させる、という話にも通じているだろうか。
すべてのコミューンは相互依存すべきだが、金銭のやりとりはしないだろう。
相互依存と金銭のやりとりについてあえて言及している点は示唆深い。コミュニティー同士は相互依存すべきだけれど、それはきっと不等価交換による贈与の関係によってなされるべきだ、ということでしょう。
個人のなかにある豊かさ(老子)
老子の教えはとても重層的なので、わたしには端的に解説することができないのだけれど、ここでは加島祥造氏の意訳を紹介しようと思います。
タオのエネルギーが、その人のなかに植え込まれると、ちょっとやそっと揺さぶられたって抜けない。あのパワーをしっかり抱いた人は、他人(ひと)や社会に引きずり廻されない。そしてその命の活力は、遠く子孫にまで伝わってゆく。だってそれは大自然のエネルギーだからさ。
これを身に着けた時、君はいろんな束縛から自由になる。すると君の家族も、きっと、この柔らかな活力を持つようになる。村だって同じだよ。もし、こういう家族がふえれば、村はじっくり落ち着いて、国家だってそうさ。国が大自然の力を貴べば、国は豊かになるだろう。そしてやがては、こういう豊かさのゆきわたる世界が創られるべきなんだ。
だから、大切なのは、自分個人のなかに、タオの活力を据えることだ。ただしそれは、修身斉家治国平天下につながるなんてことじゃないんだ。各人がただ、自分の中の活力を思いそれを大切にすることでいいんだ。それがひとつの家にじっと湧きはじめるのを思えばいい。ひとつの村に、ひとつの国に、どれほど広がってゆくかを、思えばいい。そうすれば、全世界のほんとの姿が見えてくる --- いつかゆきわたるにちがいない静かな世界。それはこういう目で見ることから実現されるんだよ。
各々の道をしっかり据えることで、あらゆる豊かさはひとりのありのままの心の豊かさから世界へと広がってゆく。これはきっとnoteの世界でもおなじ。ひとりひとりがそれぞれの真正にしたがって道を歩んで行く先に、豊かな今が開けていくように思います。
りなる
参考: