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YESだけで成り立つコミュニケーション
すべての会話に「YES」だけで答えるコミュニケーションは可能だろうか?
そんなことを昔からよく思ったりする。
「NO」があるから、否定されたと感じたり、賛成してもらえなかったとガッカリしたり、プライドを傷つけられたと恨みが募ったりする。
あたりまえのことを言っているかもしれないけれど「YES」としか答えなかったら確執は生まれない。
ただ、それはイェスマンになれという意味とはちょっと違っていて、もっと大きな視点でみれば、すべての想いには真偽なんて存在していないということ。
あなたは美しい。
これは真でも偽でもない、"わたし"はあなたが美しい"と思った"、という現象でしかないから。
このような主観的なものだけでなく、あらゆるものに真偽なんてない。いや、すべてのものは人の主観であると言うべきなのか。
例えば、道行く人にこんな質問をされたら
駅はあっちであってますか? ーーー 駅と全く逆を指差して
すると駅の方角を聞いていると勝手に解釈して「NO」と答える。駅と反対方向を指差したとしても、意図的に交通量の少ない安全な道を指していたかも知れないし、極端な話どっちを指差したって、地球を一周してまわってくれば、結局どっかでその「駅」に交差するだろう。
いや、そんな屁理屈を言うつもりじゃなかったんだ。
これはつまり、駅と反対方向を指差した時に、NOと言ってしまいがちだという話なんだ。NOと言わずには居られないという話なんだと思ってほしい。
自分の意見や主張を正しく相手に伝えること。そしてそれを読み解くこと。これはとても難しい。伝わる/伝えるということは、わたしが上手く情報をアウトプットし、それを相手が正しくインプットするという相互関係で成り立っているのだから。
言い方を換えれば、会話には自分の意見を主張するコストだけでなく、相手が理解するコストがあると言うこともできる。このとき、頭のなかで最も都合のいいものに補完し手っ取り早くNOという。これは自分の意見を主張するコストばかりを気にして、相手が理解するコストを無視しているのだ。そして結局わかり合えない選択肢をいつも選択してしまう。
<あとがき>
オチは書かなかったのだけど、自分が主張するコストを度外視して、相手が理解する方のコストに注力するようになるってことは、つまるところYESを繰り返すコミュニケーションになるんじゃないかなーって予感がある。それってすごいめんどうなことだけど、結果的にコストはそっちのほうが低いんじゃないかと思うんです。だから、世の中の多くの会話の仕方というか、会話するときのコストのかけ方があべこべになっているのじゃないかと。