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コミュニティは重層的 - 『コミュニティ デザイン』を読んで

先日、会社でコミュニティ デザイン(山崎亮)の研修を受けて面白かったと聞いて、本を借りてみた。この書籍は議論よりも、実際にどのようにして地域に根付いたコミュニティを醸成していったかの事例がたくさん紹介されていた。感想を書くのが難しいのだけれど、わたしなりに企業内で実施しているチームビルディングと、ここで書かれているコミュニティ デザインは人間関係の構築という点において多くの似ている点があると感じるとともに、なるほど大きく違いを感じる部分があった。のでメモ。

コミュニティは重層的

これは明確に書籍で表現されているわけではないのだけれど、コミュニティというのは本来とても重層的なものなのだとハッとさせられた。

例えば、村長さんには奥さんがいて、娘がいて、更には孫がいるかもしれない。すると、当たり前だけれど、村長さんには村長の顔以外にも、夫の顔があり、お父さんの顔があり、おじいちゃんの顔がある。。。人間おもしろいもので、その関係性によって物事に対する意見や姿勢は変わるものだ。同僚に言われても聞かないのに、孫に言われたらすんなり耳に入ったりするやつね。

これは『分人』( ‎平野啓一郎)で述べられていたことにも似ている。自分とは、決して白か黒かにはっきり定義できるものじゃなくって、例えばそこにはドジャースファンの自分がいる一方で、ヤンキースも応援したくなる自分がちょっぴりいたりする。裏切り者!と言いたくなる気持ちもわかるけれども、それはなにも不思議なことではなく、人間は自分の中に大小複数の顔を持っている。「人」対「人」ではなくて、自分という「ひとり」のなかにも矛盾する顔が内在している。この自分に内在する、白と黒で割り切れないグラデーションを許容することこそが社会の摩擦を解消するひとつの手段になりえるかもしれない。

そして、この多様な「顔」はコミュニティの中で多重に折り重なる人間関係として、更に顕著に現れるんだ。

奥さんに頭の上がらない村長

組織において、なぜ多様性が重要なのか?それは単一的な思考に凝り固まることなく、さまざまな主義主張が活発に議論される場になりうるからだよね。単一の種というのは絶滅危惧種のそれと同じ。だから、職場には年寄りだけじゃなく、若者がいたほうがいいし、男性ばかりじゃなく、女性がいたほうがいい。ああいう意見の人も、こういう意見の人もいていい。すると組織は柔軟になり活気を取り戻す。

昨今、この柔軟さは「多様な人の集まり」という観点でしか見られないようだけれど、「ひとりの中にも多様な顔」がある。村外からの移住者の受け入れに頑なに反対を主張していた村長さんだって、ひょっとすると家に帰って奥さんと話している間は、「そうは言っても、このご時世、もっと村をオープンにせんといかんかもなぁ。。」なんて台所で素で話しているかもしれない。

コミュニティは、このような様々な顔をもつ多重な人間関係の「層」を包み込む受け皿として機能する。

企業は単層的

これって企業にはないよね。わたしたちが企業に雇われている理由は、わたしたちの中にある部分的なスキルをかわれてのこと。わたしという人間が多重に絡む家族や兄弟や親戚、趣味や興味、思想といったものは加味されていない。企業組織は部分最適で、ひとりの人間を決まった時間軸のなかにある単一の存在とみなしてしまう。企業でいう多様性っていうのは所詮、「いろんな種類の人」を囲い入れるっていうだけでしかない。

でも、ひとりひとりには本来は多重な人間関係にぶら下がる多様な顔をもっている。本来人間はより永い時間軸の中で重なり合う人間関係とともに揺れ動くものなんだ。あるときは、親と、友人と、恋人と、、、そしてそれは息子や孫に受け継がれてゆく。。。

子ども・若者のポテンシャル

もうひとつ面白かったのが若者のポテンシャルに関する記述だ。子どもはもちろん学生など、若者には固定観念も忖度もない。いいと思ったものをストレートにいいと発言できる純粋さがある。「じーじはどうして隣組の組長と仲が悪いの?」と聞けてしまう。そして、「隣の組長と話してみたけどとーってもいい人だったよ?」と言えてしまう。

大人たちは子どもの話には耳を傾けやすい。そこに利害という意図がないことがわかるからだ。子どもたちは気づいていないかもしれないけれど、固定観念に縛られたしがらみを解きほぐし、10年、50年後の未来を切り開いていくポテンシャルが大いにあるように思わせてくれる。

学生は、本人たちが気づいていない強力な力を持っている。中立な存在を保つ力である。… 利害とは関係なく、本当にいいと思うことを素直にいいと言える中立な立場としての学生は、地域の人たちとの信頼関係を築きやすい。

『コミュニティデザイン』山崎亮

「若者に任せる」は単一的思考からくる

すると、老害は身を引いて未来は若者に託すべきだ!なんて主張したくなるかもしれない。選挙でも年寄り議員や既得権益層には早々に退陣いただいて、若い風に入れ替えなければならない、といった議論が盛んになされている。でも、実際のコミュニティの働きをみると、この考えこそが単一的な思考から来ていることがわかる。

課題解決には2つのアプローチがあると著者は言う。ひとつはその課題に直接アプローチする方法。そして、もうひとつは、課題を解決するために彼らが所属するコミュニティの力を高めるよう、その場を醸成する機会にアプローチする方法だ。前者は企業や仕事でわれわれが散々トライしてきたことだよね。そして、後者こそ、この先近い未来に向けてコミュニティという多重な場でこそ力を発揮する新しいアプローチになるような気がした。

コミュニティは多重な層からなっていて、これが人間関係の柔軟性を生んでいるのだから、「若者だけ」というのもまた脆弱なんだよね。重要なのはあらゆる人と重層的に関わることだよね。それが一見遠回りにみえたとしても。

そんなことを思った。

りなる



参考

ゆうちゃんの記事にて引用してくれました。こちらの記事も合わせてどうぞ。

「コミュニティ」の定義が変わってきていると思う。
コミュニティの「目的」とか「理念」なんて言う人が出てきた。
これはおかしいよ。ほとんど「チーム」になっちゃってる。
コミュニティをチームと同化させようとしているみたい。
仕事しかアタマにない人たちの発想でしょうか。

ほんとそう!わたしの仕事や職場でも、コミュニティを語るチームがたくさんありますね。さすがゆうちゃん、考えがとても整理されていてスっとはいってきます。

みんな本来の意味にむとんちゃくで、言葉の響きだけで反応するから相反する概念を同じテーブルに乗っけて行動に移してしまうんでしょうかね。言葉本来の意味と行動に思慮深くあってほしい。

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